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1999年01月号 掲載
ラッコのいる海いない海
 
文・写真 丸橋 珠樹
武蔵大学人文学部教授<生物学>
 森羅万象すべては連なり変転していくという考えは、日本人にとって親しみやすいものです。生物種が進化するメカニズムを最初に、科学的に論証したのはダーウィンでした。ダーウィンは生物と環境との関係、あるいは、個体どうしの関係が変化をもたらす原動力だと考えました。
 今年の秋、獅子座流星群を楽しんだ方も多いことでしょうが、宇宙のなかでの地球の奇跡といえば、海があることです。水なくしては、生命の誕生はなかったでしょう。生物と地球が数十億年の間、一体となって美しい大地を創りあげてきたのです。石油や石炭も生物起源ですし、鉄鉱石も植物プランクトンが大量に酸素を発生させた時、海に堆積した酸化鉄に由来しています。石灰岩やチャートは生物の遺骸が起源です。風化した無機質の砂、粘土、シルトはそこに棲む動物たちとともに土壌を創りました。植物と動物は、究極のリサイクルを保ちながら、地球の生物多様性を増大させてきたのです。数え切れないほどの多種多様な生物と地球との相互作用こそが地球の特異性と美しさのみなもとだというのが新しい地球の見方です。
 ところで、「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉はよく知られていますが、そのすべての繋がりをすらすらと言える人は意外に少ない。ダーウィンの進化論をめぐって世情が沸騰していたイギリスにもよく似た小話がありました。「大英帝国の繁栄は、マルハナバチに依っている」というのです。帝国が戦争に勝利すると、田舎では寡婦が増える。寡婦は寂しいので猫を飼う。猫は野ネズミを捕食する。空いた野ネズミの地中の巣にマルハナバチが巣を作るので蜂が増える。蜂が増えると、牧草のクローバーの受粉、結実が進み、牧草がいっそう繁茂する。牛は肥え太り、子を生み数も増え、兵隊はふんだんに肉を食べて強くなる。そうして、大英帝国は戦争に勝ち、また、寡婦が増えていく……。悲しい話です。
 愛らしいラッコが、道具を使うのはよく知られています。ラッコは、植物を加工して道具を製作するチンパンジーのレベルにこそ到達していませんが、海底のアワビに何度も石を打ちつけ、殻を叩き割って食べたり、海上に運び上げてきた平たい石で貝やウニを割って食べたりします。一七四〇年代にシベリアからアラスカを探検したステラーが、ラッコの毛皮を九百枚持ち帰ったのが彼らの受難の始まりでした。ラッコの毛皮には、一平方センチメートルあたり十万本もの綿毛があり、保温性には特に優れています。冷たい海に棲む海獣や鯨類は厚い脂肪層で体温を保持していますが、ラッコは綿毛でつくられた空気の層で体温を保っているのです。 人々は競ってカムチャッカ、アリューシャン列島からアラスカへ、フロリダからアラスカへとラッコを乱獲し、わずかの間に三十万頭はいたラッコを二千頭足らずにまで激減させてしまいました。宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』にも主人公ジョバンニと病気の母親が、北の海にラッコを獲りに出かけた父親を気づかう会話が出てきます。

スマトラの海で漁をする夫婦。
小さな技術が豊かな暮らしを保っていく。
 乱獲はやまず、ついに一九一一年にはラッコの商取引が規制され、種の保全がはかられることになりました。
 アメリカ、フロリダ州モントレーの海では、漁獲量が減る一方で漁業に未来はないと悲観していた漁師たちが「ラッコなんぞ保護して何になるんだ」と言いつのりました。しかし、理はあるのです。ラッコのいない海では、ラッコの好物のウニが増殖し、ウニは海藻を食べ、藻場が減少してしまいます。藻場は、魚の産卵場所、稚魚の生育場所、食物連鎖を支える魚の生物多様性、海の生態系の要です。保護されたラッコが増えて、ウニが減り、藻場が繁茂し、漁獲高は増えていったのです。
 その上、ラッコ観光を引き金として海のレジャー産業が地域経済を支えるもう一つの柱となりました。今ではラッコの厳しい保護を主張するのは漁師たちです。

オランウータンの親子。体の大きな樹上の果実食者、彼らしか種子散布できない植物の生存を支えている。
 似た話しは、熱帯林にもあります。サルを狩りする森では、余ってしまった果実が大量に林床に落ちます。そのため、地上で果実、種子を食糧とするブタ類が増加し、熱帯林は種多様性を減少させていくのです。
 ある地域のそれぞれの海や山には、生物と地球、人間と自然との長い繋がりの歴史が埋もれ、それぞれに特色ある自然風土が創られているのです。人、動物、植物、魚など森羅万象の役割と関係をうまく理解し、それを子どもにも大人にも生き生きと語る言葉が今こそ必要とされています。多様な存在は多様な関係を創り育てるだけでなく、より安定したより多様な繋がりをさらに創り出すという、正のフィードバックをもたらします。四国の海や川に日本カワウソを見に出かけてみたいものです。