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2000年07月号 掲載
牧野富太郎の家(東京都)
植物標本と戦い
武蔵大学教授 丸橋 珠樹 

佐川町、司牡丹の酒蔵の先にある牧野富太郎の生家の跡。

牧野富太郎の墓。
佐川町の青山文庫背後の山中にある。 隣に明治天皇に愛された宮内大臣田中光顕の墓がある
 日本の植物の父といわれる牧野富太郎の名を冠した「牧野植物図鑑」は、サルの生態を研究する私が何くれとなく参考にする本である。海外調査でサルの食物を調べる図鑑類はたいていカメルーン植物誌とかタイの植物相とか国名がついている。それなのになぜ著者の名が本のタイトルに?と心にひっかっかていた。最近「牧野植物図鑑の謎」(俵浩三、平凡社新書1999年)を読んでそれが氷解した。自らの学問への自負と村越三千男との植物図鑑の出版競争が背景だったらしい。
 新緑の5月、自転車で練馬区の郊外にある牧野記念植物園を訪ねた。牧野が生涯を閉じた小さな仕事場がそのままの姿でコンクリート建造物の中に保存されていた。1926年、牧野は大根畑が一面に広がっていた豊島郡(今の練馬区)東大泉のこの場所に居を移した。動機の1つは、3年前の関東大震災で標本の一部を焼失したことだった。牧野が集めた40万点の採集標本と45,000冊の図書資料は第二次世界大戦の戦火をまぬがれ散逸することなく牧野自身によって守られたのである。
 この粗末な牧野の仕事場の前に立った時、私はふと、1990年に調査に訪れたコンゴ国森林省の標本庫を思い出した。この研究施設はフランスの植民地時代に作られ、独立後もコンゴ人によって連綿と研究資料が蓄えられ整理されていた。私が採集した標本の種名を決めていく種同定作業をコンゴ人スタッフが助けてくれた。ところが、その数年後、冷戦の終結とともにコンゴでは政治体制をめぐる内乱が起こり、そのさなかに森林省の標本庫は破壊し尽くされてしまった。乱入者達は、ただ、たきつけにする紙が欲しいがために標本をめちゃめちゃにして台紙や新聞紙を略奪していったという。

佐川町、司牡丹の酒蔵の先にある牧野富太郎の生家の跡。

牧野富太郎の墓。
佐川町の青山文庫背後の山中にある。 隣に明治天皇に愛された宮内大臣田中光顕の墓がある
 その標本庫に堆積していた数十年の人類の努力と知は一夜にして灰となってしまった。初めて学術的に記載される標本はタイプとよばれピンク色の台紙が用いられ、命名者の署名と学術情報が記されたラベルがつけられる。学問が進歩し、新しい考えのもと大規模な再分類が行われることがある。その場合には、ピンクの台紙にも新しい学名がつけられたり最初の古い種名が削除されたりする注記ラベルが署名とともに貼りつけられていく。標本台紙に貼り重ねられているいくつものラベルは時を超えた挑戦状とも思える気迫に満ちている。このようにして地球の生物多様性はより深く理解され、連綿として整理されていくのである。同じ種名の箱には産地が違う、つまり変異が理解できるように数十の標本が採集者名と採取地名とともに収められている。ナフタリンの染み込んだ静かな植物標本庫は植物学者たちの学問の戦いの場であり語らいの場である。
 牧野の最晩年の30年間、日本の植物標本庫はほんの4畳半2部屋だったと言っても過言ではない気がした。採集やスケッチに使われた道具類とともに粗末な建物が残されていることに深い感慨を覚えた。ここにあった採集標本は20年間をかけて整理され現在では東京都立大学牧野記念標本館に所蔵されている。静かな標本庫のなかでは、牧野が新種として命名した標本にも学問の進歩とともに幾つもの新たなラベルが貼り続けられてゆくことだろう。残されている牧野の仕事場「篠書屋(ようじょうしょおく)」には、「学問は底の知られざる枝藝也」と記されている。

牧野が死の床まで仕事を続けた居宅が残されている。
(東京都練馬区大泉)

篠書屋で植物標本を見る牧野富太郎