2014年07月 掲載
愛媛県・日振島の青い海とやさしい人々
 
 岩田三代(日本経済新聞編集委員)

宇和島港から始発の高速線で日振島へ


- 明海(あこ)の集落 -


- 山下亀三郎が建碑した藤原純友の碑 -
ここが純友の根拠地であったいう


- 砦跡の純友公園から明海の集落へ下る -


- テングサを干す -


- 磯乃屋の夕食 -
ウニもサザエもすべての魚の味に雑味がない

「島で会った人は皆やさしかった」。訪問から1カ月たち、こんな思いが募っている。愛媛県宇和島市の沖合にある日振島を訪ねたのは5月下旬。日本経済新聞夕刊の旅ナビ面の取材のためだった。 日振島は四国と九州に挟まれた豊後水道のなかほどにある。太平洋から瀬戸内海へ続く交通の要衝で、鹿児島や宮崎から京、大坂に向かう船の多くは、古来、この水道を通る。神武天皇が東方に遷る際に船を率いて豊後水道を通りかかり、闇夜となった。荒れる海に翻弄(ほんろう)されていると上下左右に打ち振る火が見える。それを目当てに船をこぎ寄せ島の入り江についた。この故事から火振り島→日振島と言うようになったと伝わる。
 10世紀半ば、この島を本拠地に腐敗した都に反旗を翻し南海の雄として名をはせたのが藤原純友だ。夢破れ「海賊」の汚名を着せられたが、同時期に東で兵を挙げた平将門と並び今も多くの人の心をとらえる。作家、海音寺潮五郎は純友を主人公にした小説「海と風と虹」を書き、NHKは平将門とあわせて大河ドラマ「天と地と」として放映した。今回の取材は、この純友の島を訪ねようというもの。私は愛媛出身だが宇和海の島を巡るのは初めてだった。
 午前6時、友人と2人で高速船に乗り込み宇和島新内港を出発した。島影が続き振り返ると四国の山並みが青くかすんでいる。「晴れた日には佐田岬や大分県の工場の煙突も見える」と船員が教えてくれる。友人から「戸島を過ぎると波が荒くなる」と聞いていたが、この日は海も穏やかでさほどでもない。30分ほどすると日振島が見えてきた。
 まず喜路に寄り、島の中心である明海(あこ)へ。ここで下船する。港に着くとすぐ目に入ったのが赤紫のテングサ。4~7月、島はテングサの季節だ。島の人は家族総出でテングサを取り、道路や海岸に干してカラカラに乾燥させる。滞在中、島のあちこちで家族そろってテングサを干す姿を見た。お世話になった民宿「磯乃家」の久保益基さん一家もご主人が潜って取ってきたテングサを妻と息子の3人で家の前に干していた。海中を漂うテングサを引き上げて干すこともあるが、久保さんのは正真正銘、海に潜り両手で引きちぎって収穫したもの。紫の色が濃くつやつやと美しい。干したテングサは倉庫に保管し、7月のセリにかけるのだという。 のんびりと日なたでくつろぐ猫の横で一休みした後、集落の路地裏にある「みなかわの井戸」を見る。藤原純友も使ったと伝わる井戸だが、知らなければ通り過ぎてしまいそうなたたずまい。小さな石仏が並んでいるのが少し目をひくくらいだ。だが、竹で編んだふたをとると中から古そうな石組みが顔を出した。さらに下はクス材があり、言い伝えによれば歯痛の際にこのクスを削って噛んでいると痛みが治まるのだという。

- 能登の沖の島へ -


- 沖の島のピークへの登路 -



- 島の南側。崖の上に日振島灯台 -


- 久保益基さん -
故郷の日振で59年。日振島の海を熟知している

 険しい山道を10分くらい登ると純友の砦跡に出る。海上を見張るには絶好の眺望だ。この日は暑さのためか薄くもやがかかっているが、豊後水道が一望できる。吉田町出身で純友を慕った昭和の海運王、山下亀三郎は1939年、ここに立派な碑を建てた。碑文には「賊名を免るること能はざりしを…(中略)…海国男子としてエライ男だという感もまた起こらざるを得ない」と素直な感情を刻んでいる。
 公民館主事の畠山ひとみさんに1974年発行の小冊子「ふるさと日振島」をいただいた。当時の日振島小学校校長・菊沢尋吉氏の表紙、カットは大胆かつ温かみがあって秀逸。日本民俗学会会員でもあった松本リン一氏の文章も簡潔でわかりやすい。この時代、日振島への愛情あふれるこうした冊子が作られていたことに感激する。
 畠山さんに島の見どころや歴史、現在の状況を親切に教えていただき、民宿の自転車を借り島内を一周した。干されたテングサの写真を撮ったり、急な坂道を自転車を押しながら歩いたりしていると島の人が人なつこく話しかけてくれる。テングサを干していた家族に道を尋ねた時には、息子とおぼしき若者がはにかみながら丁寧に教えてくれた。腕に日焼け止めを塗り忘れ、東京に帰ってから一皮、二皮むけてしまったのだが美しい海や島、湾に浮かぶおびただしい養殖いかだを眺めながらのサイクリングは最高だった。「何もないのがいい。名所旧跡よりこの空気と太陽と自由な時間を満喫すべきなんだ」。自転車をこぎながらつぶやいた。道をそれて島の南西側の断崖が見られる海辺に立っていると、あまりに雄大な景色に言葉を失う。打ち付ける波の音だけが響いていた。

- ウニはとる場所で味が違う -

 もうひとつ感激したのが夕食でいただいた海の幸。「磯乃家」で出される魚はすべてご主人が海で釣ったり、潜って取ったりしたもの。それを料理上手な奥さんが最高の美味に仕立ててくれる。この日の食卓は磯釣りのメッカである御五神島(おいつかみしま)近くでとれたウニと、アジ、イカの刺身、大きくて立派なサザエ、グレの身と卵の煮付け、小アジの南蛮漬け、豆腐とアジの汁、ナスのフライなど。素朴だが新鮮でおいしい。特にサザエは身もたっぷりで久々に、サザエを食べたという気がした。
 翌朝は、久保さんの船でハマユウの自生地として知られる沖の島と島の南西側の断崖絶壁を案内してもらった。前日と違って北風がやや強く吹き、湾を出ると船に波が打ち付け上下に大きく揺れる。友人と2人、船縁と細いロープをしっかり握っていなければ船から飛び出しそうだ。それでも久保さんがいつも出すスピードの三分の一くらいだという。
 沖の島は日振島の北の突端に位置している小島だ。海で亡くなった人が打ち寄せられ白い貝砂の下には人骨も埋まっているという。その上に植えられたハマユウはまだこれから開花を迎えるところだった。

- 島の南側には海食洞がある -

 島のてっぺんに1949年6月20日に一帯を襲ったデラ台風遭難者の慰霊碑が立っている。この時期に台風がくるはずはないと信じて漁に出た漁民106人が命を落とした。碑が建つ高台からは遭難した漁場を望むことができる。自然が牙をむいたときの力は海を生活の場にしている人々をも飲み込む。それにしても海は透明で美しい。それを植物の緑が彩る。久保さんが「4~5月に養殖のための稚魚を取りにいった帰り、おれの島はこんなにきれいだったのかと思うんですよ」と言う。海底の地形が起こす潮騒や潮が満ちてくるときの波も「恐ろしいけど感動する」とも。自然とは実に美しくかつ怖いものだ。 再び船に乗り込んで島の南西側に向かう。そびえ立つ断崖と複雑な地層。海岸近くは波と風に浸食され、イタリアの青の洞門に匹敵しそうな洞窟や丸く穴があいた岩が並ぶ。テングサ取りの漁船や磯釣りの人の姿も見える。 島を離れる前、久保さんの奥さんに干したテングサをさらして料理に使えるようにしたものをいただいた。帰宅してインターネットでところてんを突く道具は手に入れた。もっと暑くなったら作って家族に振る舞おうと楽しみにしている。 (2014年6月20日記。この取材では遊子水荷浦の段畑も訪れた。その報告は機会があればいずれ……)