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2002年12月号 掲載

 
イグアス 国境地帯の旅 
関 洋人 (大洲市在住)

夜更かしの国の子供たち
 夕闇が迫る、七時ころフォス・ド・イグアスのホテルに入った。前日はほとんど眠っていないし、滝とプエルト・イグアスを歩き回ったために我々の疲労と空腹はかなりのものになっていた。外に出て手頃なレストランを探す気にもなれず、八時過ぎにホテルのレストランで食事をすることにした。客は我々以外一人もいない。ガルサンゥ(ボーイ)がメニューを持ってくるが、ポルトガル語でしか書いてない。私が持ち歩いている辞書を引いていちいち調べるが、時間がかかる事夥しい。わからないメニューをガルサンゥに訊くと、親切にもその料理の材料を厨房からわざわざテーブルまで持ってきて見せてくれる。File de caranguejo(カニのフィレ肉)とは何ぞや?と尋ねる。持ってきたのはどう見てもカニカマ。結局三十分ほどかかって、肉料理とドラド(黄金色をしたサケ・マスに近い南米の川魚)料理、それにサーモン料理を注文。肉料理とドラド料理は結構いけたが、札幌在住のH老が、南米まで来てわざわざ注文したいつも食っているサーモン料理はいちばん高価であったのにパサパサしていて少しも旨くない。
 ゆっくり食事をとっていたら十時半。このころになって、やっと客が入り始めた。一般に中南米では昼食をたっぷりとり、人によっては夕方の五時頃に軽食を摘み、九時か十時頃夕食を始めるのが普通である。深夜までゆっくり食事を楽しむ彼らを見ていると、最近めっきり夜に弱くなった私には信じがたい光景のように思われた。余談であるがリオやサンパウロなどの大都市では小さい子供たちさえ深夜まで外で遊んでいるのを見かける。もちろんmeninos de rua(ストリート・チルドレン)の話ではない。少し古い話になるが、一九九四年ブラジルがアメリカでのサッカーワールドカップに優勝し、凱旋した時の優勝パレードは、北東部のレシーフェで始まり、次に千八百キロ離れた首都ブラジリアへ、さらに千キロの距離があるリオへと三つの都市を一日で移動して行われた。真夜中に始まったリオのパレードは、数百万の熱狂的な群衆で沸き返り、空が青くなるまで延々と続いたという。夜に強いのはカルナバルの時だけではないのである。更についでながら、ブラジルには十一月と十二月に生まれた子供が多く、彼らは‘カルナバルの子供’と呼ばれる。カルナバルは二月初旬から三月初旬(年によって異なる)に行われるが、これは、その時の行いの必然的帰着なのだ。
 不思議なことに、このように夜遅くまで起きて騒いでいても翌朝には平気な顔をして仕事に出かける。よく疲れないものだとつくづく感心してしまう。
(つづく)

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