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2001年01月号 掲載
第1回 本郷の常盤会寄宿舎
文/井上 明久  絵/藪野 健
 子規・正岡常規は明治十六年に上京し、明治二十六年に帝国大学文科大学を中退するまでの十年間、東京で学生生活をすごしている。ちょうど十代半ばから二十代半ばまでに当たるこの時期は、子規にとって正に青春の只中にある。そして、そのわずか十年後の明治三十五年に三十代半ばで死ぬ運命にあった子規には、緩やかな晩成とか豊かな老熟といったものを持つことが許されなかったのを思えば、とりわけこの時期がいかほどに貴重で大切であったかが伺い知れよう。

 その間、子規は日本橋区浜町の旧松山藩主の久松邸の書生小屋をはじめとして、いくつかの下宿を移り住むことになるが、中でも明治二十一年の秋から明治二十四年の春までの約二年半ほどをすごすのが、本郷真砂町十八番地にあった常盤会寄宿舎である(絵地図)


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 炭団を商う商人が多く住んでいたからとか、炭団が転転と転がり落ちて止まらないほどに傾斜が急だったからとか、いくつかの由来を持つ炭団坂の崖上の角地に常盤会寄宿舎はあったが、そもそもその地には明治十七年から三年間、坪内逍遙が住んでいた。

 逍遙はこの地で、勧善懲悪を排して写実主義を唱えその後の日本文学に大きな影響を与えた『小説神髄』、そしてその理論を小説の形で実践した『当世書生気質』を書いた。またさらには、それらの著作に刺激を受けた二葉亭四迷が逍遙を訪れ、その慫慂によって日本初の言文一致体小説『浮雲』を書き、近代小説の歴史を拓くことになる。従って、小高い丘の上のこの地は、明治からの日本文学史において、とりわけその生誕から揺籃期において、決定的に重要な意味を持つ場所であり、空間なのである。

 明治二十年、逍遙が同じ町内の別の借家に移った跡を受けたのが常盤会寄宿舎である。常盤会は明治十六年に久松家が旧松山藩子弟の保護奨励のために設置し給費を主としていたが、寄宿舎設立の懇願を受け、久松家不用の長屋を移してこの地に常盤会寄宿舎を建てた。約一〇三坪の借地に、舎室十二、他に食堂賄所などがあり、畳数九十四畳半、舎生の定員三十名であったという。当時の写真が残っているが、二階家の二棟を細長い平屋が繋いでいる形の、相当に大きな建物である。

 この建物の中で日夜寝起きした二十代前半の子規の青春は、若々しい光と不吉な翳の双方に彩られていた。当時の子規はごく一般の若者らしく舎友や学友たちと盛んに学び盛んに遊んだ。とりわけベースボールには熱心で、攫手(キャッチャー)として活躍した。現在使われている野球という名称は、子規の幼名の升(のぼる)からとって野球(ノボール)としたという説があるが、必ずしもそれは定説とは言えない。が、そういうことも充分あり得ると思えるほどに子規がベースボール好きであったことは確かだ。

 そして同時期の子規を襲った暗い方の側面は、明治二十二年五月九日夜の、寄宿舎内での喀血である。翌十日の夜半、時鳥という題で発句を四、五十ほど作るが、この時から子規という号を用い始める。また、この年に入ってから交流が深まった夏目金之助が、五月十三日にこの常盤会寄宿舎に子規を見舞っている。金之助はこの時はまだ漱石を名乗っておらず、この後、子規の『七艸集』を漢文で批評し、九篇の七言絶句を添えた際に初めて漱石の号を用いている。

 つまり、正岡常規が子規となり、夏目金之助が漱石となったのは、実にこの明治二十二年の五月の何日間かの出来事なのであり、しかもその媒介の場となったのがこの常盤会寄宿舎なのである。子規と漱石は文学史上稀な高潔で深甚な交際を持ったが、ただそれだけに止どまらず、後の文学に計り知れぬ大きな成果を生み出したのである。

 あれから百年以上の時が経った今、日立本郷ビルの建っている同じ場所に立ってみる。逍遙も四迷も、子規も漱石も、無論いない。そして、大小高低の建物が櫛比していかにも現代の東京らしい雑多な町並みが広がっている。けれど、それでいてこの崖上の地からの眺めは決して悪くない。空の大きさと真近かさは不思議と悠久な気分にしてくれる。ひょっとしたら、これは見えざる文学の力なのかもしれない。

  ガラス戸の外面に夜の森見えて
     清けき日に鳴くほととぎす
      (崖上から菊坂あたりを)   子規

 
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