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2001年10月号 掲載
第7回 本郷追分と『月の都』〈その三〉
文/井上 明久  画/藪野 健


 自分と同い歳の、けれどすでに文壇において確固たる地位を築いている幸田露伴の『風流仏』に影響を受けて書いた子規の小説『月の都』は、こんな書き出しで始まる。
「三十一文字の徳は神明に通じ十七文字の感応は鬼神を驚かすというめるを花に寄せ鳥に寄せては詠み出ずる歌に恋の誠をあらわし月に比(たぐ)え雪に比えては口すさむ句に世になき美人の面影を忍ぶことここに何年、斯くても猶(なお)出雲の御神玉津島明神をはじめ八百万(やおよろず)の神々は知らず顔にうしろ向き給うは如何にぞや、末世に及びて神霊も衰えたるか我が信心の足らぬか美人一人今の世になき事かと許(ばか)りあけくれ歎くすき心浮世もよしや足引の山の手辺に住居(すまい)して今業平(いまなりひら)と正札つきの桂男目には見ゆれど手には取られずと歎(かこ)つ近所の評判まだ十三の歳より道徳堅固の高僧を三度振り返らせて罪を造り初めけるとなん其名を高木直人と云う。」
 先ずは最初に主人公のプロフィールをサッと一刷毛(ひとはけ)で紹介するのは、小説の常道の一つである。これは子規がお手本にした露伴の『風流仏』でもそうである。ただ、小説を書き出すに当たって、いきなり、「三十一文字の徳は神明に通じ十七文字の感応は鬼神を驚かす」と始めるあたりは、さすが子規である。歌人子規、俳人子規のに面目躍如たるところがある。
 もっとも、その主人公たるや、道徳堅固の高僧を三度も振り返らせるほど罪造りの今業平というのだから、《写生》を強く主張した後の子規を思うと、少しばかり微笑(ほほえ)ましくも感じられる。勿論、実際に御目にかかったことはないのだから速断は控えるべきかもしれないが、文学全集の口絵写真などを拝見する限りおよそ今業平とは対極的と言ってもよろしいか。その子規が、絶世の美男子と絶世の美女の悲恋を綴ったのが『月の都』である。『風流仏』に大きな影響を受けた子規は、小説とはそういうものだと思ったからだろうか。あるいは、子規の中にもともとある浪漫的感覚が成さしめたことだろうか。恐らくはその両方が合わさって、『月の都』という小説が出来上がったのであろう。
 ここで話は一気に後年のことに飛ぶが、時間が経つほどに子規には小説に対する否定的な思いが強まっていったことが窺われる。例えば、晩年の子規はこんなふうなことを言っている。「自然を写生する以上は一草一木も私することは許さない。自然をいつわるのは罪悪である。」


9月上旬の台風の日の根岸子規庵と庭


 大変厳格で突き詰めた考え方である。このようなリゴリズムを、小説といった甚だいい加減で自由勝手で無形式でちゃらんぽらんな代物にストレートに適応すれば、「小説のような偽らしいものを作るのは罪悪だ」という発言になるのも当然である。そして、その結果としてはこうなる。「自分の親しく経歴した事を綴ったら、人に依ったら或は一生涯に一つ二つ、吾々の思う様なものが出来るかも知れぬけれど、そういう事は小説と云うよりか寧ろ伝記というが適当であろう。」
 ここでは、後の私小説の作家たちが立たされることになる(そしてそれは私小説とは対立する考えの傾向を持つ作家たちにとっても無視することのできない)大きな難問(あぽりあ)と同質の場所に子規は立っていることになる。
 話はまた若き二十五歳の、小説『月の都』を書き上げたばかりの子規に戻るが、「正岡子規」と題した談話の中で漱石はこう語っている。「それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分からなかった僕もえらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時もごまかされていた。」  漱石によれば、『月の都』を評して露伴は川上眉山よりも巌谷小波(さざなみ)(漣)よりも秀れていると言ったと子規が自慢をしたとのこと。果たして、そうだったのか?

 
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