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2001年11月号 掲載
第8回 本郷追分と『月の都』〈その四〉
文/井上 明久  画/藪野 健


 子規が自ら漱石に向かって語ったところによれば、「眉山、漣の比では無いと露伴もいった」というのだが、 実を言えば子規の小説『月の都』に対する露伴の評は少しも芳しいものではなかった。
 明治二十五年二月のある日、子規は『月の都』の原稿を谷中天王寺町は銀杏横丁の蝸牛廬に幸田露伴を訪ね、手渡す。 そして二月二十九日、『月の都』を書くために借りた本郷追分の奥井方の離れを出て、下谷区上根岸町八十八番地に転居する。 本郷追分での暮らしは二ヵ月と少しの期間であり、それが『月の都』の執筆に当てられた期間でもあったことになる。 本郷追分から上根岸への引越しにはいくつかの理由があったのだろうが、谷中の露伴宅がそれまでよりもずっと近くなるというのもその理由の一つであったに違いない。
 実際、転居した翌日の三月一日、子規は再度、露伴のもとを訪れている。 しかし、残念ながらこの時、露伴は留守をしていて子規は会うことができなかった。 そして翌三月二日、『月の都』の原稿は子規のもとに返されてくる。 無論そこには、『月の都』に対する露伴の感想なり批評なりが何らかの形で認められてあったろう。 それが如何なる内容であったかは定かではない。けれども、それから程経ずして虚子と碧梧桐に宛てた手紙の中で、「拙著はまず、世に出る事、なかるべし」と子規は書いている。子規の落胆ぶりを見れば、露伴の評は推して知るべしというところだろう。


子規の墓所がある田端の大龍寺の門前

子規の墓、没後百年祭の塔婆があった。

谷中界隈で
 もっとも、少しばかり子規を弁護すれば、これは最初から子規に不利な闘いなのである。そして、少しばかり露伴に同情すれば、これは最初から露伴には荷厄介な注文なのである。つまり露伴にしてみれば、自分が書いた『風流仏』に心酔し、それに深く影響された作品を読まされることは、おもはゆくもありまた面倒な思いにもさせられたに違いない。ましてやその相手が自分と同い歳なのだから、露伴の気分はよけい重かったはずだ。軽くあしらうわけにもいかず、けれど『風流仏』の作者からしてみれば『月の都』の亜流ぶりは欠点の方がより目立って感じられただろうから、恐らく丁寧にやんわりとした筆致ではあったろうが、露伴の評はその本質において否定的であったと推量される。
 いくらその作家とその作品を崇拝しているからといって、同工異曲の作品を提出して好意ある評を期待する子規は、いささか人情の機微に欠けている。表現者というのは往々にして自分と同じような表現をする者を快く思わないものだからである。むしろ、自分とは反対の、自分には無いものを評価することが多い。だから、その点で子規は最初から計算を間違ったと言えなくもない。もっとも、そんな計算なぞ最初から頭になかったであろうところに子規の豪さがある。子規は露伴の『風流仏』に心酔し、それに影響されて『月の都』を書いた。だから何が何でも露伴に読んでほしかった。その一途さと樸実さ、それが子規なのだ。
 その年の五月四日、子規は虚子宛に「僕は小説家となることを欲せず詩人とならんことを欲す」と書き送っている。そしてこの頃から次第に俳句に没頭するようになる。露伴の『月の都』評を神の声と聞いたのか、子規はそれまで抱いてきた小説家志望に一応の諦めをつけたようにも思える。しかしながら、完全にその思いを断ち切ったわけでは決してなかった。その後も、『一日物語』『当世媛鏡』『曼珠沙華』『花枕』『我が病』(未完)などの小説を子規は書き続けているのだから。
 そして当の『月の都』も、露伴に見せてからちょうど二年後の明治二十七年二月、自分が所属している新聞「小日本」に推敲を加えて連載した。子規は何としてもこの作品に日の目を見させたかったのだ。ここには、子規の青春と小説への想いが込められているのだから。

 
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