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2002年04月号 掲載
第12回 高尾への道〈その一〉
文/井上 明久


 歳上の人間が歳下の人間を、心からなる尊敬と信奉で凝視しつづけるということは、なかなかに難しい。 ましてや、その歳の差が親子ほどにも近い二十歳ということになれば、それは更に難しいものになる。 けれども、その難しいことが内藤鳴雪(めいせつ)と正岡子規との間にあったのである。 そんな風に思わせた歳下の子規の豪(えら)さは言うまでもないが、見栄や世間態に捕らわれず一途に自己の真情を表明した歳上の鳴雪も負けずに豪(えら)いと言えるのではないだろうか。
 明治維新を迎えるほぼ二十年前、すなわち弘化四年に松山藩士の子として江戸の三田(現・港区)に生まれた内藤鳴雪は、愛媛県学務課長を経て、文部省に入省する。 そして、明治二十二年に退官した後、常盤会寄宿舎の監督になる。 常盤会とは、本連載の第一回に記したように、旧松山藩主の久松家が旧松山藩子弟の保護奨励のために明治十六年に設置したものだが、 その後、寄宿舎設立の懇願を受け、明治二十年、坪内逍遙が住んでいた跡地を譲り受けて本郷真砂町十八番地、炭団坂(たんどんざか)の崖上の角地に常盤会寄宿舎が建てられた。 明治十六年に上京した子規は、この寄宿舎に明治二十一年の秋から明治二十四年の春までの約二年半ほどをすごすことになる。 従って、当初の二人は寄宿舎の監督と寄宿生という関係にあったのだが、やがて俳句の師と弟子という関係へと変化していく。 ただしこの場合、師は歳下の子規であり、その教えを受ける弟子は二十歳も歳上の鳴雪の方であった。


子規(右)と鳴雪。根岸子規庵、蕪村忌の日に。
 内藤鳴雪は子規について、こんな風なことを語っている。 「子規子は僕の師である。先達である。ともかくも、僕が今日俳人、否、俳人らしく一部の人に言わるるようになったのは全く子規子の賜である。 子規子なかつせば僕は  たる理屈的の一漢で終わるのであった。故に内藤素行を生んだのは僕の父母で、内藤鳴雪を造ったのは子規子である」と。 こんな言葉は、ちょっとやそっとでは出てこない。 そうなのだ、鳴雪の子規への想いはちょっとやそっとではないのだ。改めて繰り返すが、当時の感覚では初老の域にかかり始めていた鳴雪をしてそう思わせた子規の人間的器(うつわ)の大きさも際立って素晴らしいが、 まだ海のものとも山のものともわからぬ一青年の中に俳句を通しての師を瞬時に見出し、それを表現するのに躊躇しなかった鳴雪の純樸篤実な人品もまた大きな称賛に価するだろう。
 明治二十五年十二月七日朝、その頃すでに別の下宿に移っていた子規が、本郷真砂町の常盤会寄宿舎に鳴雪を訪ね、高尾山への吟行旅行に誘う。 この時、子規二十五歳、鳴雪四十五歳。 高尾山のある八王子に一泊した旅は新聞「日本」に「馬糞紀行」と題して発表され、その後、単行本に収録する際、子規は「高尾紀行」と改題している。 初出のタイトルである「馬糞紀行」の因(もと)になったであろうと思われるのが、鳴雪が詠んだ次の句である。そして、この句は「高尾紀行」となった際には本文から削られている。

 新宿や 馬糞の上に 朝の霜



新宿駅東口にある馬水槽
 新宿から汽車で高尾山のある八王子に出るために、子規と鳴雪は本郷から新宿へ向かう。当時の交通や運搬手段において、最も重要な役を荷なっていたのは馬だった。 従って甲州街道や青梅街道の起点として、交通の要所である新宿への道には、いたるところに馬糞が落ちていた。 そんな馬糞の上に、十二月の朝の白い霜がうっすらと降りている。 朝の霜に化粧されると、馬糞もまた俳味を帯びてくる。現在の新宿に馬糞を見ることはないが、往時の様子を偲ばせてくれるものがJR新宿駅東口を出たところにある。 赤大理石でできた馬水槽(ばすいそう)である。獅子頭をした蛇口から出る水を、上部が馬、下部が猫や犬、裏側が人と、それぞれが飲めるようになっている。 これは明治三十九年にロンドンの水槽協会から東京市に記念品として贈られたもので、その形状と意匠の美しさはなかなかのものである。

 
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