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2003年04月号 掲載
第24回 明治二十八年の大移動
文/井上 明久

松山市一番町萬翠荘に残る家老屋敷の井戸。
漱石が水を汲んだという。
 明治二十七年八月一日に日清戦争が起こって以来、子規は心理的には俳人であるよりも多くジャーナリストであった。そもそも当時の子規は陸羯南主催の「日本」のれっきとした新聞記者であり、日々の仕事として中国大陸での戦火は最大の関心事であったからだ。と同時に、あるいは仕事としてという以上に、文学に志を定めるまでは相当な政治少年だった子規には、忘れていた昔の血が覚えず騒ぎ出して仕方なかったのかもしれない。翌二十八年が明けると、子規はもう矢も楯もたまらず従軍記者として大陸に渡ることを志願切望する。
  そしてここから、明治二十八年の子規の大移動が始まるのだが、それは子規に地理的、空間的な転変をもたらしたばかりでなく、精神的、内面的な転換をももたらすことになった。いや、そう言っただけでは到底済ますことのできない、運命とも言うべき決定的な事象と次々と出会っていくことになる。三十五年の短い生涯で、余人には成し得ない質量ともに量り難く豊かな仕事を遺した子規にとって、明治二十八年はそんな宿命的な年だったのだ。
 三月三日、東京を発った子規は六日に広島に着く。そこで従軍のための手続きや準備をする。十五日に松山に帰郷。再び広島に出てそこで正式に近衛師団付として従軍許可を得る。四月十日、宇品港を出航し、金州に向かう。実はこの時、すでにある事が起こっており、子規はそれを後の二十四日に金州で受け取った碧梧桐からの手紙で知ることになる。子規にとって四歳年下の従弟である藤野古白が七日にピストル自殺をはかり、十二日に死亡していたのである。古白の母・十重は子規の母・八重の妹であり、幼い時から友でありライヴァルであった子規と古白は濃密で錯綜した交渉を持ってきた。子規はこの時「陣中日記」の中で、「春や昔古白といへる男あり」という追悼句を捧げている。
  金州、旅順に約一ヵ月ほど滞在し、その間、陸軍軍医監として従軍中のを訪れる機会を得る。五月十日、日清講和条約の批准。子規は帰国のため十四日、佐渡国丸に乗船するが、途中十七日、船内で喀血してしまう。そしてこの時の喀血が、それ以降の早すぎる晩年の決定的な引き金となる。船を下りた子規は二十三日、直ちに神戸病院に入院する。二ヵ月の入院生活をすごし、七月二十三日、須磨保養院に移りここで一ヵ月の療養生活を送る。八月二十日、須磨保養院を退院し、岡山・広島を経て、二十五日に松山に帰郷。二十七日から、当時松山中学に勤務していた漱石の下宿に入る。
  松山で暮らした一年間での漱石にとって三番目の、そして最後の下宿は、二番町八番戸上野方であり、ここを漱石は「愚陀仏庵」と名付けていた。愚陀仏は漱石の俳号の一つでもあり、「愚陀仏は主人の名なり冬籠」の句がある。この愚陀仏庵の二階に漱石、一階に子規が同居した、明治二十八年八月二十七日から子規が上京する十月十九日までの五十余日は、日本近代文学史における最も美わしく最も好ましい交友の一情景であり、これはまた稿を新たにゆっくりと述べる必要がある。


萬翠荘裏の城山山中に復元された愚陀仏庵。
 十月十九日、松山を発った子規は広島、大阪、奈良をめぐり、三月三日に東京を出て以来、およそ八ヵ月ぶりに帰京する。子規の句中、多分最も人によく知られている「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、この時の奈良で詠まれたものである。こうして日清戦争への従軍記者として始まった子規の大移動は、中国そして日本の各地を経巡ったが、その間には喀血、入院、療養という苦難が挟まれていた。そして、病気と闘いながらとはいえこれほどの長い距離を移動することができた明治二十八年の子規だが、何と言うことか、翌明治二十九年の三月にはいよいよ歩行の自由を失い、それからのおよそ七年間、その死を迎えるまで「病牀六尺」のみを己が全世界として生きることになるのである。

 
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