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2003年09月号 掲載
第29回 藍染川幻影(その五)
文/井上 明久
第二章 見帰橋(つづき)

 駿河台上にある校舎で、Nと真一が出会ったのは十七歳の秋だった。真一は横浜の実家を離れて、親戚の家がある谷中坂町のすぐ近くの清水町に小さいながらも一軒家を借りていた。そして、輸入品を扱っているという菅沼商会の裕福さとハイカラーさは、真一の着るものや持物によく反映していた。
 Nと真一が出会ってすぐに惹かれ合ったのは、相手の中に自分とは対蹠的なものを見出し、互いに少年らしい好奇心でそれに興味を掻き立てられたからであったに違いない。
  横浜という土地柄、貿易商という職業柄、そして将来は長男として父親の跡を継ぐという身分柄、真一はどこまでも洋風に育てられた。朝食はいつもやきパンに牛酪(バタ)と紅茶(テイ)だった。下駄というものをほとんど履いた記憶がなく、ごく小さな頃から革靴の紐を結ぶことを知っていた。家に出入りする外国人と同席しても、さして緊張感を覚えることはなかった。四角い漢字の羅列には頭が痛くなったが、西洋文学を眺めているのは何の苦もなかった。そして、外国人の家庭に招(よ)ばれて食事をしたり、洋琴(ピヤノ)や提琴(ビリオン)の演奏で西洋音楽を聴いたりもした。
 それに対して、古い江戸の文化を色濃く残した家に生まれたNは、一中節を唸る父親と毎日きちんと髷を拵(こしらえる)母親とを見て育った。晴れの外出に洋服を着せられると窮屈でたまらず、すぐに家に飛んで帰って着物に着替えたくて仕方なかった。落語や講釈が好きで、遊び人を気取った兄と一緒に小さな時分から町内の寄席に通った。漢文が与えてくれる駘蕩悠久な別乾坤には心の底から酔い痴れる快感を覚えたが、文字自体に何の意味も歴史も持たず単なる記号の連なりでしかない横文字にはどうにも馴染めなかった。そして、やがて高等学校に進んだら教師はすべて外国人だと知って、そのことに怖れと不安を抱いた。
 二人は互いに互いが面白かった。東洋にも西洋にも広く流布されている古い民話に何種類かの取りかえばや物語があるが、もし自分が何らかの運命の偶然で相手のような家に育つことになったら・・、と想像するのは十七歳の少年にとって大いに刺激的であった。
 真一はNに自分の知らない粋とか鯔背(いなせ)を見た。実を言えば、真一が思うほどにNは粋とか鯔背でもなく、どちらかと言うと少しばかり野暮の方であったかもしれないのだが、横浜から来た西洋風の少年にはそれでも充分に江戸風を感じることができた。Nは真一に自分の周囲には見ることのないモダーンとハイカラーを見た。未だ本物の外国人と話したことのないNにとって、真一は西洋からの息吹きであり妖精であった。
 ただし、二人の内で相手により強い憧憬とより深い愛着(あいじゃく)を抱いていたのは、明らかにNの方だった。それには恐らく二つの理由があった。一つは、時代が否応(いやおう)もなく欧化へと突き進む中で、どんな少年にとっても古い江戸よりもまだ見ぬ外国の方が重く切実であったということ。もう一つは、真一の美貌だった。
 二人は最初は君(くん)付けで相手の姓を呼んでいたが、程なくして真ちゃん、金ちゃんと呼び合うようになった。そして、学校の帰りや日曜日に、Nはよく清水町を訪れた。横浜の実家から従(つ)いてきた品のいい老婆がなにくれとなく世話をする様子が、Nにはことのほか心地良く、また羨ましかった。

 Nは生来、家というものに恵まれない子供だった。やがて元に戻されることになるとはいえ、生後すぐに一度は養子に出された身であった。また、母はNが十五になった春に死んでしまい、父はいつになってもしっくり馴染むことはできなかった。自分の家にいながら他人の家に間借りしているような居心地の悪い日々を送っているNにとって、真一と老婆の家は芯から暖かく、新鮮だった。


本郷鐙坂の洋館
 清水町の家は六畳二間と女中部屋から成っていたが、一間の方には厚い毛織りの敷布を敷き、その上に横浜から運んできた方形の食卓兼机と二脚の椅子が置かれていた。
 その椅子に座って、Nは生まれて初めて牛酪付きのやきパンを食べた。また、外皮がガサガサとしていて中にはネットリとした薄黄色の甘い流動物が入っている菓子も食べた。金鍔(きんつば)や鹿子(かのこ)といった普段食べ慣れているものとはずいぶんと違った味と感触のその菓子は、なんでもシュ・ア・ラ・クレームとかいうフランス生まれのものだということであった。そして、その時に真一の口から発せられた音(おん)は、Nの耳にはまるで外国語そのもののように甘美に聞こえた。

 
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