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2004年01月号 掲載
第33回 藍染川幻影(その九)
文/井上 明久
第三章 手取橋(つづき)

枕橋
 このお勢さんと僕とを一緒にさせようという話が養父によって企図されたということを、後になって兄の一人に聞かされたことがある。今は錯綜した線で結ばれているとはいえ、無論もともとはお勢さんと僕とは根っからの他人なのだから、全く有り得ない話という訳でもなかったろうが、男と女の仲に緩い性質の養父のことゆえ、どこまで考えてのことだったのかは定かでない。酒の上の気紛れな思いつきだったか、それなりに冷静な利害上の計算だったか。
 ある時、養父の家の前で、入っていこうとする僕と出ていこうとするお勢さんとがバッタリ出会って、二言三言、言葉を交わしているのをたまたま通りかかった学友に見られ、翌日、教室であれは君のフラウかと冷やかし半分に訊かれた。あわてて言下に否定したが、揶揄とも羨望ともつかぬその時の友の物言いが、何故だかひどく心地良かったことを僕は記憶している。
 固(もと)よりお勢さんと僕が一緒になるような運命(さだめ)など金輪際あった訳のものではなく、確かお勢さんが十七だったか、もう十八になっていたか、軍人の某と見合いをして世帯を持ち、その後、任地先の九州へ移っていった。それが僕が十五、六の頃の根岸の思い出だ。
 最初のつもりとは大分思わぬ方向に来てしまった。けれど、これも常さんが根岸で若い妾と懇(ねんご)ろになるなどと書くものだから、ついついこちらもつまらぬ競争心を煽られてしまいまして、面目次第もござんせん。
 それでは蝸牛先生からの吉報を待ちつつ、この辺にて。なになに、逢初橋はどうしたって。うーん、それは今度(こんだ)にしよう。不一
   常大人へ                 金の字より      

     *   *   *

 この大馬鹿野郎の頓痴気め。何が今度(こんだ)だ。今度(こんだ)だの呑んだだのと言い訳する暇があったら、とっととそのしゃっ面をここまで運んできて口をパクパク動かすか、さもなきゃインク壺のインクをタップリとペン先につけてさっさと腕を動かし余分の切手をいっぱい貼って速達郵便を送ってきやがれ。どうだわかったか、金の字め。仏の常さんより

     *   *   *

 拝復
 嬉しい。何とも嬉しいね。何が嬉しいって、いやさお常、お主(ぬし)がここまで言文一致の啖呵(たんか)がきれるたあ、嬉しい限りを通り越して、恐れ入谷なんざずずうっと通り越して、恐れ三ノ輪か浅草かってなとこですよ。
 浅草と言えば、仲見世の通りで一度だけお勢さんを見かけたことがある。まだ任地先へ赴く前で、少尉だか中尉だかの旦那と肩を並べて歩いていた。むこうは自分たちの話に夢中で、周囲の雑踏は目に入らない様子だった。無論、僕には声をかけるほどの勇気も世間智もなかったので、そのまま通りすぎた。お勢さんとは今に至るまで全くそれきりである。
 何、お勢さんのことじゃあないって。まあ、待ちたまえ。慌てる乞食は貰いが少ないという金言を、お主知らぬな。今、インク壺のインクをペン先にタップリとつけたから、安心したまえ。
 それにしても、いいかい常さん、ものには何事も順序というものがある。風呂に入る前に着ているものを脱ぐように、あるいはまた釜に研(と)いだ米を入れた後に薪(たきぎ)に火を点けるように。この後先が逆になったら、着物は濡れるし米は炊けない。次のことを語る前に、どうしても僕はお勢さんのことを言っておきたかったのだ。何かよく訳もわからずに心惹かれていた存在(もの)が、不意に目の前から姿を消していなくなる。そんな類(たぐい)の喪失感を僕は漠然(ぼんやり)とお勢さんに感じていたらしい。
 それから一年少しして、一人の友に出会った。どこからどこまで面白いほどに二人は好対照だった。一人の満ちている部分がもう一人には欠けていて、一人の欠けている部分がもう一人には満ちていた。二つの半円が接することによって一つの円が完成するように、二人の人間が出会うことによって互いに完成した一人の人間に近づけるような思いがした。けれど、不意に友は死んだ。死んで僕の前からいなくなった。あのまま二人が溶け合っていれば、友と僕はどうなっていただろう。
 友と僕がつきあったのは僅か三ヵ月の短かさでしかない。その短かさの中で僕はどれほど莫大なものを得たかしれない。しかし、得たものが大きければ大きいほどに、友の死は僕に底知れぬ喪失感を与えた。何ものかに強く心惹かれるということは、その何ものかを深く喪失するということではないのか。それからの僕は強く心惹かれることを怖れる人間になった。深く喪失することを怖れるあまりに。
 逢初橋で出会った娘さんは、その友の妹なのだ。名を道子さんという。道子さんとはその後二度ほど逢った。一度は指ヶ谷町に一人で訪ねてきた。狭い部屋では息苦しいので外へ誘った。そして歩きながら、下(しも)のような会話を交した。

 
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