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2004年07月号 掲載
第39回 食意地について
文/井上 明久

復元された愚陀佛庵
 前回に引用した漱石の談話「正岡子規」は、こんな語り口で始まる。「正岡の食意地の張つた話か。ハゝゝゝ。さうだなあ」。これは恐らく、漱石に向かって訪問記者が、「夏目先生、子規という人はずいぶんと食欲が旺盛というか、食意地が張っていたと聞いていますが、実際そうだったんでしょうか」といったような問いかけをしたのに対して、漱石はこう語り出したのであろう。
 友人後輩たちの思い出話や本人自身の文章などから、子規が大食漢であることはつとに知られていて、それがまた子規の人柄の大らかさと見合っていて、だからこそ若い(多分?)記者もそこらあたりを話のとばくちにして、漱石から旧友子規の人となりを引き出そうとしたに違いない。漱石の方だって、いきなり、「子規の俳句論についてどう御考えですか」と切り出されるよりは、ずっと話し易かったに決まっている。
 子規の食意地の張った話として漱石がまず最初に思い浮かべたのは、松山は愚陀佛庵での五十余日の同居生活の時のことであった。「僕は二階に居る、大将は下に居る。(略)其から大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちやぴちやと音をさせて食ふ。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食つたやうであつたが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京に帰る時分に、君払つて呉れ玉へといつて澄まして帰つて行つた。僕もこれには驚いた。」
 豪放磊落なのか、傲慢無礼なのか。どちらにしてもこの大将、無論、漱石から嫌われているわけではない。幼い頃から複雑な養子の身として実家と養家の間で肩身を狭くしてきた漱石にしてみれば、とうてい自分にはできない業(わざ)だなという思いで、少し呆れもし、また大いに羨ましくもあっただけである。一方、子規にしてみれば、松山中学での夏目先生は校長よりも高い八十円の給料をもらっているのだから、病を得て苦境にいる旧友に対して少しばかり鰻を御馳走したって罰は当るまい、ぐらいのことは考えていたかもしれない。
 先の引用文中でいささか好奇心を起こさせるのは、「御承知の通りぴちやぴちやと音をさせて食ふ」という箇所である。「御承知の通り」と言われても、「ホトトギス」の読者のどれだけが御承知かどうかは怪しいが、漱石の口ぶりからすると、子規と接したことのある人間には周知の事実だったのかもしれない。子規とぴちゃぴちゃ、か。やっぱり子規は人一倍、食意地が張っていたのかな。
 ところで、義の人、道の人である漱石は、一方的に子規にたかられたわけでないことをちゃんと言い添えている。「併し其前は始終僕の方が御馳走になつたものだ。其うち覚えてゐる事を一つ二つ話さうか」と言って、学生時代に子規におごられた思い出を語っている。その内の一つに、大宮公園内の万松庵に滞在していた子規が漱石を手紙で招いて、鶉(うずら)を食わせたという話がある。「僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思つてゐた。処が実際はさうでは無かつた。身代を皆食ひつぶしていたのだ」という。子規の大物ぶりを示すエピソードだ。
 大物ぶりといえば、漱石が語る次のエピソードもいかにも子規の面目躍如といった感がある。「其時分は冬だつた。大将雪隠へ這入るのに火鉢を持つて這入る。雪隠へ火鉢を持つて行つたとて当る事が出来ないぢやないかといふと、いや当り前にするときん隠しが邪魔になつていかぬから、後ろ向きになつて前に火鉢を置いて当るのぢやといふ。それで其火鉢で牛肉をぢやあぢやあ煮て食うのだからたまらない」。
 呆れつつ賛嘆している漱石の顔が浮かんでくるようではないか。そう、こういったある種の無神経さ、いや、小さなものごとに囚われない大らかな恬淡さこそ子規という人間の本質であり、一方の漱石からすれば憧れつつどうしても手に入れることのできない類(たぐい)の性行だった。同い歳にもかかわらず、終始、漱石が子規に対して兄事したのも、こんなところにその一因があったのではないだろうか。

 
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