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2004年09月号 掲載
第41回 占いについて〈その一〉
文/井上 明久

通天橋
 若き日の子規は占いに凝っていたということだが、いったい、どれほどの凝りようであったのだろうか。『筆任勢 第二編』には、明治二十三年一月から三月中旬までに書かれた文章が収められているが、その中に「正岡易占」なる一文がある。
 「余竹村其十より卜筮(ぼくせい)術を伝受せるに、未だ施すべき処なく困りゐる折柄 夏目漱石、我後来運命の程を占ひくれよといふ、心得たりといひながら筮竹(ぜいちく)さらさらとおしもんで虚心平気にトふに……」
 という書き出しで始まり、以下かなり長めの御託宣(ごたくせん)が述べられている。自分が思っていることややっていることを黙って秘めておくことのできない性分の子規のことだから、「俺は占いができるんだぞ」とまわりの連中にさんざん吹聴(ふいちょう)したにちがいない。それでも「未だ施すべき処なく困りゐる折柄」というのだから、まわりの連中が子規の占いをどう見ていたか、およそ察しがつくのではないだろうか。
 「じゃあひとつ、俺のことを」と声をかけた漱石にしても、どこまで相手を信用していたか。おそらくはその場の戯れか、いささか淋しげにしている友人への情ある心遣いか、いずれかそんなところだったろう。しかし、言われた子規にしてみれば、来たか金さん、待ってたホイ?というか、?飛んで火に入る夏の虫?というか、待ちに待った珍客の到来という思いだったにちがいない。
 その証拠に、漱石に対する子規の占いは礼を尽くし、言葉を尽くしたものになっている。素人が読んでも、決しておざなりのものとは思えない真摯さが感じられる。もっとも、諧謔(かいぎゃく)精神に富んだ子規のことだから、そしてそれをわかってくれる漱石が相手だから、締めの部分は、「どうです 是位の易ならば上々大吉なり 君、西洋軒の昼飯に出かけやしよう、安いものです」となっている。
 礼を尽くし、言葉を尽くした子規の占いを大変乱暴に要約してしまうと、「あなたは教育家になる。また、文壇に将として牛耳(ぎゅうじ)を執(と)る。のちにその名声は海外に聞こえ渡る」といったようなものになる。満二十二歳の子規、畏るべし。
 ここから、話頭は漱石その人に移る。学校を出てすぐの二十七歳の頃、小石川の法蔵院に下宿していたが、そこの和尚が内職に占いをやっていた。「易断に重きを置かない余は、固(もと)よりこの道において和尚と無縁の姿であった」と、『思い出す事など』にある。そう、漱石という人間はもともと占いに信を置くようなタイプではなかった。だから、子規に我が身を占ってくれと言った時も、漱石の思いとしては冗談半分であったにちがいない。
 が、しかしである。本当にそうだろうか。漱石本人は確かに、自分を「易断に重きを置かない」人間と規定していた。『思い出す事など』に、先の文章に続けてこうある。「ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とかいう和尚の縄張り内(うち)に摺(ず)りこんだので、冗談半分私の未来はどうでしょうと聞いてみたら……」。ここで漱石は、ちゃんと「冗談半分」と断わりを入れている。が逆に、この断わりが少々怪しいのだ。冗談半分とわざわざエクスキューズをすることで、かえって漱石の無意識の内面が露顕しているのではないか。
 確かに、漱石はたとえば行動の指針に占いを採(と)りいれるような人間ではなかったろう。後に「自己本位」という言葉に発展していく生き方の萌芽(ほうが)を、恐らくは若い時から着実に育(はぐく)んでいたにちがいない。幸せとは言い難かった幼少年期の境遇が、恃むは己れひとりという思いを金之助の心に強く植えつけ、そこに漱石の人生と文学の通奏低音があったことは明らかだ。  がだからこそ、意識的には絶対そうは思わなくとも、無意識の内で冗談半分に「私の未来はどうでしょう」とつい口に出してしまう、もう一つの内面を持っていたのではないか。自分は、自分は、と問い詰める行為それ自体が、何か自分を越えた大いなるものの存在に触れてしまう、そんなことがあるのではないか。
(この項、つづく)

 
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