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2005年05月号 掲載
第49回 三島への旅〈その五〉
文/井上 明久


 三嶋大社に詣でた後、子規は三島の町に一泊する。
 「三島の旅舎に入りて一夜の宿りを請えば草鞋(わらじ)のお客様とて町に向きたるむさくろしき二階の隅にぞ押しこめられける。笑うてかなたの障子を開けば大空に突っ立ちあがりし万仞(ばんじん)の不尽(ふじ)、夕日に紅葉(もみじ)なす雲になぶられて見るみる万象とともに暮れかかるけしき到る処風雅の種なり。」
 湯元の宿に続いて、三島でもむさくるしい隅の部屋に押しこめられた子規だが、ことさらそれに不平を言うこともなく、「笑うて」障子を開ける。このあたり、子規のちょっとした 余裕 を感じさせる。無論、風流を求める子規の強い想いが成せる業(わざ)である。
 しかしまた、無論それだけではない。ここは三島の町なのである。むさくるしい部屋の障子を開ける行為にも、思わず笑みがこぼれて当然である。障子を開けば、そこに見えるのは、あの富士山なのだから、「大空に突っ立ちあがりし万仞の不尽」とは、言い得て妙である。あの富士山さえあれば、部屋のむさくるしさなぞ何ほどのことがあろう。そう子規は素直に思えたにちがいない。そして、日が落ちるとともに刻々と暮れかかっていく景色を見て「到る処風雅の種なり」という感慨を持つ。芭蕉のいわゆる「見る処花にあらざるはなし」の心境に、子規は近づいたということか。
 三島から修善寺へと子規は向かう。「修善寺に詣でて蒲(かば)の冠者(かんじゃ)の墓地死所(しにどころ)聞きなどす」。蒲の冠者とは、頼朝の異母弟で、義経の異母兄にあたる源範頼のことである。範頼は頼朝軍の主力武隊である大手軍の総大将として木曽義仲の追討、そして宿敵平氏一門の追討に奮戦するが、華々しい戦果はいつも搦手軍の総大将である弟の義経に奪われてしまう。世に範頼の評価は平々たる凡将という声が多いが、果してそうと言いきれるかどうかは難しい。
 貴族社会から武家社会へと歴史を動かした革命家頼朝、天狗の化身とも言うべき天才的軍略家義経、そんな二人の間に生まれた範頼こそ同情すべきかもしれない。範頼の兄が頼朝でなく、範頼の弟が義経でなかったら、あるいは範頼にどんな生の軌跡が残されたろうか。
 それにしても哀れなのは範頼の身で、義経同様に、いや義経以上に兄頼朝に献身的な働きをしつづけたにもかかわらず、曽我兄弟の仇討事件の折り、源氏一門のためを思って洩らした一言が頼朝の疑惑と怒りを買い、修善寺に流された末に誅殺されてしまう。遊女だった母が生まれた年も、恐らくは修善寺の地で終えたのであろうその没年も、ともに未詳であることが範頼の哀れさを増している。
  「村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々(なかなか)にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる涙の玉はらいもあえず一もとの草花を手向(たむけ)にもがなと見まわせども苔蒸(こけむ)したる石灯籠(どうろう)のほかは何もなし。思いたえてふり向く途端、手にさわる一蓋の菅笠(すげがさ)、おおこれよこれよとその笠手にささげてほこらに納め行脚の行末をまもりたまえとしばし祈りて山を下るに兄弟急難とのみつぶやかれて
  鶺鴒(せきれい)やこの笠たたくことなかれ」
 子規の範頼に対する惻々たる想いが伝わってくる一文ではないだろうか。子規はこの後、頼朝が流人として二十年の歳月を過ごした韮山(にらやま)、そして同じく頼朝が戦いに破れて危うく一命をとり落とすところを敵将の梶原景時に助けられた石橋山などを通って、「旅の旅の旅」の出発点であった大磯に帰るのである。
(この項、了)

 
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