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第68回 「東京の坊っちゃん」〈その10〉
文/井上 明久

- 荻の猫 -
 誰が饅頭先生だ、このウマシカ野郎め。
 お前等、多田の満仲も知らねえうすらとんかちの、コンコンチキの、脳天パーラーの、風が吹けば桶屋になりたがる、詩でも語でも碌でもない頓痴気め。
 そもそも多田の満仲とは源満仲のことで、藤原純友の乱を制圧し清和源氏の祖となったあの源経基の子にして、大江山の酒呑童子を退治したあの源頼光の父である。どうだ驚いたか、この唐変木の空っ風小僧め。
 そして満仲自身は、安和の変で大活躍した鎮守府将軍で、摂津多田荘を根城にした摂津源氏の祖である。どうだ恐れ入ったか、この入谷の飢子凡人め。ちったあ、歴史の勉強ぐらいしてみろってんだ。
 改めて言うが、おれは多田の満仲の後裔なんだ。それが言うに事欠いて饅頭先生だと。バカヤロー、饅頭が何だ。饅頭なんか恐かねえや。饅頭が恐くって心中が出来るかってんだ。
 とは言うものの、饅頭は余り頂けない。おれは江戸っ子の蕎麦っ食いだから、蕎麦なら喜こんで何杯でも掻っ込んで見せるのだがな。四国の中学の時、おれが天麩羅蕎麦を4杯食ったのを生徒に見られて、早速翌日、天麩羅先生の仇名を付けられたことがあったっけ。大した自慢にもならないが。
 山嵐の奴を捕まえて、
 「ここの生徒は馬鹿だ。大馬鹿者だ」
 と言ってやると、比叡山の悪僧めいた面を一層強ばらせて、
 「何でだ」
 と詰問してきた。
 「何でだって、多田の満仲ひとつ知らないんだから、呆れて物も言えない」
 そう、おれが真実を教えてやると、すかさず山嵐の奴、にこやかに顔を綻ばせながらおれに囁きかけた。
 「そんなもん、生徒たちに教えることはない。彼奴等には勿体ない、勿体ない。おれにだけそっと教えてくれればいいから」
 「何の事だ」
 「何の事じゃない、すっ惚けやがって。さっき言ったばかりだろ。どこにあるんだい。どこに行けばいいんだい」
 「何が」
 「決まってるだろ、ただの饅頭だよ」
 「…………」
 生徒が生徒なら教師も教師だ。山嵐の甘言だか奸言に釣られて、おれは飛んだ所に来ちまったのかも知れん。新学期早々、おれは少々頭が痛くなった。
 新学期早々と言えば、小川さんがなかなかの人物だと評価していた高橋是清が、先学期で当校の校長の職を退いた。何でも政界の仕事が多忙を極めたせいだという。代わった新校長とは学校が始まる前に1度だけ校長室で会った。
 四国の校長は狸だったが、こちらは狐だった。どちらも人を化かす点においては一般であるが、同じ化かすにしても、四国の狸は田舎の分だけ抜けた所があって憎めない。それに引き換え、東京の狐は油断がならない。生き馬の目は抜かれても生き狐の目は抜かれまいと、狐視眈々としている。
 四国の狸が最初の面談の時におれに長いお談義を聞かせて、やれ生徒の模範になれの、やれ1校の師表と仰がれなくては不可んの、やれ学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないのと、無暗に法外な注文をするものだから、そんな事は私の様な者には到底出来兼ねると突っ撥ねた事がある。
 東京の狐が似た様な事を言おうものなら目に物見せてやると手薬煉引いていると、そこは小賢しい悪狐、矢張り狸よりは一段抜け目なく、堀田先生の御墨付き故、万事、大船に乗った心地で安心してお任せ致しますと、わざわざ山嵐の名を引き出して念を押しやがった。確かに、我が身一つの事なら勝手もきくが、人様に迷惑がかかるとなれば手枷も掛かろう。それにしても、その山嵐がただの饅頭と来ては何とも……。  
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