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第74回 「東京の坊っちゃん」〈その16〉
文/井上 明久


  「君の言う一大事とは何だ、だと?」
 山嵐は毬栗坊主の有るか無きかの短い髪を逆立てて怒鳴った。おれは故意と平気の平左衛門の顔をして単簡に答えた。
「うん」
「うん、じゃあない。何だその、君の言う、とは?」
「だって、君が言ったのじゃないか」
「だってもあさってもない。君が言おうが白身が言おうが、一大事は一大事なんだ」
「だから、その一大事は何だって訊いているんじゃないか」
「何だ、そうならそうとさっさと言ったらいいじゃないか。本当に余計な世話ばかりかける奴だ」
 どっちが余計な世話ばかりかけるんだと言ってやりたかったが、そんな事を言い出すとまた話があらぬ方へ広がっていきそうなので、ここは一番こちらが大人になって言いたい文句をグッと呑み込んだ。
 文句をグッと呑み込んだ序でに、おれは目の前にあった縁の欠けた安茶碗をんで中の物をグッと呑み込んだ。オッ魂消た。
「何だこりゃ!」
 どうせ山嵐の貧乏世帯のこと、汲み置きの水を出したに決まっていると頭から思い込んでいたものだから、中身を見るも聞くもなく一気に呑んでしまった。一瞬の後、水を呑んだのとは全く異なる熱気の爆風が胃から口へと吹き登ってきた。顔がクワッと火照り、頭がグラッと揺れた。
「何だ、水だと思ったのか。相変らずの愚だな」
「相変らずとは何だ」
 おれは精一杯の虚勢を張って、浮羅ついている体勢を建て直そうとした。先刻までは妙に勢い込んでいたくせに、山嵐の奴はやに冷静な口調でまるで生徒を諭すかの様に言いやがった。
「痩せても枯れてもこのおれがだよ、大事な友である君を我が陋屋に招いておいてだよ、ただの水を出すという法があるだろうか。考えても見てくれたまえ」
 考えて見たが、何でおれが考えて見なきゃいけないのかが判らなかったし、何で山嵐がこう高所からものを言っているのかも判らなかった。だが、気分は良かった。顔と頭を駆け巡っていた熱風は温度と速度を徐々に低め、今や丁良い加減の醺風となっておれの体を吹き渡っていた。おれは何も言わずに、縁の欠けた安茶碗を山嵐の方に突き出した。
 山嵐は半腰を上げると、四畳半の隅の崩れかけた雑誌の山に寄りかかって置かれていた一升瓶に手を延ばした。その物腰が少々覚束なげに見えたので、改めて山嵐の顔をつくづくと見ると、いつもの顔よりも赭らんでいる。山嵐は半分程残っている一升瓶から先ずは自分の茶碗に、それからおれの茶碗に注いだ。
 おれと山嵐は茶碗をぶつけた。安茶碗のせいか、双方の縁がバラバラと欠けた。おれと山嵐は一気に呑んだ。
「ところで、どうして昼日中から呑んでるんだい?」
 おれは山嵐に尋ねた。山嵐はちょっと陶然とした様な目付きをしながら、何でそんな当然とした事を訊くのだという口調で答えた。
「君は相変らずの愚だな。だから、一大事だと言ってるじゃないか」
「するってえと何かい、一大事だから昼日中から呑んでる、そういう訳だね」
「当た棒よ」
「オッと、当た棒ときたね。会津っぽに当た棒なんぞと言われちゃ、江戸っ子の心棒がならねえ。そういうのを江戸じゃ、会津の当た棒、焼津の芋棒って言うんだ」
「どういう意味だ?」
「江戸っ子の言う事に意味なんてあるものか」
「…………」
「それより山嵐、君の言う一大事とは何だ?」
 
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