第03回 百年待っていて
      
文/井上明久
 

 
 さて、『夢十夜』である。
 この「さて」には、当然だが僕なりに多少の意味がある。『文鳥』、『永日小品』と来て、その連なりの次に、さて『夢十夜』、なのである。もう少し厳密に言えば、『夢十夜』の中の「第一夜」なのである。
 もっとも、この三つの連なりはごくごく自然なもので、それは書かれた時期が近接している点からも言える。すなわち、『文鳥』が明治四十一年六月、『夢十夜』が同年七月、そして『永日小品』が翌年一月で、およそ半年ほどの間に連続して書かれたことになる。従ってこの三篇を通して、或る種の同一した気分のようなものが連なっていても不思議はない。
 ただ、ジャンルは明らかに違う。『文鳥』『永日小品』と異なり、『夢十夜』を構成している十篇は純然たる小説である。各篇は四百字詰原稿用紙で五枚前後という極端に短い掌篇だが、小説として描き出された世界はそれぞれに高く、広く、そして深い。無意識の最低部に潜んでいるものを掬い出し、それを思いっ切り放縦に、幻想のおもむくままに飛翔させた『夢十夜』のタイプの作品は、漱石においてこれだけである。
 話は飛ぶが、歴史上のifとして、『明暗』を完成させた後に漱石にあと何年かの命が与えられたとしたら、どんな作品を遺したろうかと夢想することがある。愚考では、理想とした則天去私のイデーを『草枕』的な俳画世界に具現化した長編小説を書こうとしたのではないか、というのが一つ。
 もう一つは、この世の倫理的拘束からできるだけ遠くに自分を放り投げるような、『夢十夜』的な幻想小説、それも百篇ぐらい集めた膨大な短篇小説群といった類の作品。夢は勝手である。さらに愚考を重ねれば、『草枕』の非人情と『夢十夜』の無意識、この二つの間に漱石のリアリスティックな小説世界が在る、と僕は思っている。そして、漱石は最後には必ずそこに還っていったであろう、と。
 閑話休題(それはさておき)。『夢十夜』は、「こんな夢を見た。」という書き出しが有名である。そしてその印象が余りに強いため、十篇すべてがこの書き出しであるかのように思いがちだが、実は四篇にしか使われていない。もっとも、初めの三篇がこの同じ書き出しなので、そこで重ねられた記憶が後へと引きずられていくことになる。実際、漱石もそう意識して書いたであろうし、「こんな夢を見た。」という文で始まっていない六篇も、そう書かれていないだけで、夢の話であることは明らかである。
 これは夢なんですよ、漱石はそう語りかける。それから、十の夢の世界へと導いてゆく。なるほど夢の話なら、自分が見る夢を思い返しても、そこにはどんな無茶も、無理も、無恥も、無鉄砲もありだよね、と納得する。納得したうえで、漱石が描き出す夢の世界へ身を委ねる。さて、「第一夜」である。
 冒頭の一行の後に、夢はこう始まる。「腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますという。」
 いかにも夢らしい、いきなりの唐突さである。エッという感じと、ドキッとする思いとに包まれる。ここには、寝ている女がいる。そして、その枕元に坐っている者がいる。腕組みをしているというのだから、大抵は男だろう。けれど、誰とは言わない。この夢を見ている男と考えるのが普通だが、夢に登場した人物が夢を見ている人物と同じとは限らない。人は夢の中で、自分ではない人物を映画や小説の主人公のようにながめることがよくあるのだから。
 いや、でもいっそ、腕組みをしている男を作者である漱石その人だと言ってしまってもいい、のかもしれない。ただ、作品の幅をすすんで狭めたくはないので、そう単簡に言い切ることはしたくない。なるべく緩やかに、なるべく広やかに。
 それに肝心なのは、男の方ではない。寝ている女の方だ。明らかに、この女を描きたくて漱石は筆を執っている。男は(あるいは、漱石は)この女を見つめる存在としてそこに在る。
 女は「もう死にますと言う」けれど、男の目からは、「真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうに見えない。」のである。それでも女が「もう死にます」とはっきり言うと、「たしかにこれは死ぬなと思った。」と男の心はガラリと一変する。
 こうした理屈無しの極端な飛躍というのが如何にも夢らしい。夢の中では、白から黒へ、闇から光へ、天から地へ、何の理由も無しに、一瞬で変化する。またそれを、少しも不思議に思わないで受け容れる。それが夢の中の出来事である。
 

 ところで、夢は夢として独立した別個の世界とひとまず脇へ置き、野暮を承知之助でこれに現実的な屁理屈を牽強付会してみたい。唇も赤く、肌の色つやもよく、男にはとうてい死にそうに見えない女が、自らもう死にますと言う。これって、深く愛し合っているにもかかわらず、何らかの事情で現実には結ばれることが叶わず、ふたりは死にも等しい別れをしなければならない、ってことではないのかしら。生きて割かれねばならない苦しみと哀しみを、女は「もう死にます」と表現したのではないか。
 ま、でもこんなことは浮世の解釈に走りすぎた言で、女の言葉通り、女は夢の中で死んでゆく。その死の前に、「女はぱっちりと目を開けた。大きな潤いのある目で、長い睫に包まれたなかは、ただ一面の真黒であった」。
 この目だって、とうてい死にそうに見えないけど。それにどこやら、『文鳥』の一節を思い出させる。「文鳥の目は真黒である。(略)文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い目を移してはじめて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた」。
 文鳥の白い首と黒い目は、昔紫の帯上げでいたずらをした女を思い出させる。夢の中で今死んでいこうとする女の目は真黒である。そしておそらくは、首も白いだろう。まるであの文鳥のように。
 女は男に言う。「百年待っていてください」と。さらに、「百年、私の墓の傍に坐って待っていてください。きっと逢いに来ますから」と重ねる。女は男に、百年待てと言う。しかも、墓の傍で。つまり、一瞬たりとも私の死を忘れるな、ということだ。そうすれば、百年の後、必ず逢いに来るから、と。
 この女の科白は凄い。これ以上ない、究極の凄さだ。こんな啖呵(この科白はもうほとんど啖呵だ)を吐かれたら、現実の男は恐ろしさで腰を抜かすだろう。けれど、夢の男は負けてはいない。すっきりと、きっぱりと、「自分はただ待っている」と答える。
 嗚呼、何という女と男だ。
 男は女の墓の傍で、太陽が昇り、太陽が沈むのを勘定する。いくつ数えても、百年は来ない。「しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思いだした」。
 これが男だ。夢の男とは言え、ここに男が露呈している。もし立場が逆だったら、女は決して、一瞬たりとも、自分が男に欺されたのではないかと疑うことはないだろう。それが女だ。だと、思う。
 男がそう不安を抱いた瞬間、「石の下から斜(はす)に自分の方に向いて青い茎が伸びてきた」。そして、「すらりと揺ぐ茎の頂に、こころもち首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った」。男は露のしたたる白い花弁に接吻する。その時、「百年はもう来ていたんだな」と気がつく。
 『文鳥』と『永日小品』では、鳥が女だった。『夢十夜』の「第一夜」では、花が女である。女は千変万化なのだ。化鳥にもなれば、化花にもなる。あるいは、男という存在は、八百万(やおよろず)の中に女を見ているいきものなのかもしれない。愚かなことかもしれない。しかし、少しだけ貴いことかもしれない。
 夢の中で百年待っていた女が、現(うつつ)に男に逢いに来る。そんなことだって、あるのかもしれない。『永日小品』の「心」の女は、夢の女が百年経って男の前に現われたのではないか。「百年の昔からここに立って、目も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。百年ののちまで自分を従えてどこまでも行く顔である」。
 百年は人間の生から計れば永遠に等しい。『夢十夜』の「第一夜」の「自分」は、『永日小品』の「心」の「自分」は、百年の女、すなわち永遠の女と出逢った。とすれば、あるいはそれらの書き手である作者もまた……。そういうことではないか。