第05回 二つの台地と一本の川
      
文/井上明久
 

 
 男ふたり女ひとりという人物設定を、長編小説の中で漱石が初めて真正面から描いたのが、『それから』である。
 長井代助が西国から東京に戻った平岡常次郎・三千代夫婦と三年ぶりに再会するところから、『それから』の物語世界は動き出す。そして時間の経過の後、代助が三千代に愛を告白し、それを三千代が受け容れ、代助が平岡の前に自分と三千代のことを打ち明けたところで、『それから』の物語世界は閉じられてゆく。
 それは、桜がほころびかけた早春に始まり、雨がつづく梅雨の時期を経て、しきりと蝉が鳴く日盛りの夏にかけての時の経過の中での出来事であり、『それから』の物語世界はそうした時間軸に沿って現在から未来へと展開されてゆく。そして、当然のことながら、そこには過去がある。
 如何なる現在にも、なにがしかの過去がある。過去を全く切り離しての現在はない、未来はない。漱石は、繰り返し、そのことを描いたのではないか。つまり、人間には「過去」がある、と。
 代助と平岡と三千代との過去とは、こういうことである。
 「代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後、一年間というものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。その時分は互に凡てを打ち明けて、互に力に為り合う様なことを云うのが、互に娯楽の尤もなるものであった」。ここには、単純で若々しくて曇りのない、一対の明白なる友情があった。
 その一方で、「代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であった。(略)その頃、代助の学友に菅沼と云うのがあって、代助とも平岡とも、親しく附き合っていた。三千代はその妹である」という状況があった。
 代助も、そして平岡も、三千代と親しく口をきくようになる。菅沼という重しの存在によって、この時の代助と平岡と三千代は、とりあえず一定の均衡を保っていた。微妙な綾が全くない訳ではなかったが、それでもここには男ふたりと女ひとりの望ましき友愛があった。
 けれども二年足らずで、その均衡は失われる。重しであった菅沼が、母の罹ったチフスに伝染してあっけなく死んでしまう。堅牢で揺るぎなく安定していた四角形が、その一辺を喪失することで、どのような形にもなりえそうな、はかなく不安定な三角形へと変わってしまったのだ。代助と平岡と三千代は、昔のままではいられなかった。
 「その年の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてその間に立ったものは代助であった。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なって貰ったのだが、身体を動かして、三千代の方を纏めたものは代助であった。」
 平岡が代助に三千代と結婚したい旨を打ち明ける。それを受けた代助は勇んで三千代に働きかけ、仲を取り持ち、平岡の望みを叶えさせることに成功する。平岡はさぞや嬉しかったろう。代助だって負けずに嬉しかったにちがいない。何故なら、先にも引用したように、「互に凡てを打ち明けて、互に力に為り合う様なことを云うのが、互に娯楽の尤もなるものであった」ような、その頃の代助と平岡だったのだから。
 そしてその娯楽は、二人の場合、そこに止どまらずにその先にまで行かねば済まなかった。すなわち、「この娯楽が変じて実行となった事も少なくないので、彼等は双互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでいると確信していた」のだから。
 その結果、真摯で篤い友情から生まれた、この時の代助の甘美なる自己犠牲こそが、『それから』一篇を支配する「原罪」(のようなもの)なのである。
 結婚と同時に京阪地方の支店銀行に転勤になった平岡は、ある事情から職を辞して三年ぶりに帰京する。その間に、妻の三千代は死産をして体を弱くしている。平岡の遊びやら三千代の治療代やらで借金をこしらえたふたりが、東京での新生活を始めるために代助の前に現われるところから、『それから』の現在が始まることになる。
 

 漱石は、『それから』の現在を開始するに当たり、実に巧妙かつ深遠な舞台装置をしつらえている。それは、代助と平岡夫妻が住む場所の設定である。前者が牛込袋町、後者が小石川表町。これの何が凄いかということを、おいおい述べてゆく。
 代助は自らは稼ぐことなく、実家から月々に貰う金で生きている男である。いわゆる「高等遊民」と呼ばれる種族で、漱石は好んでこの種の男を描いた。
 実際に職業を持つ持たないに関わらず、気質としての高等遊民ということならば、デビュー作の『吾輩は猫である』の苦沙彌、迷亭、独仙、『草枕』の余、『虞美人草』の甲野さん、『三四郎』の広田先生、『彼岸過迄』の須永、松本などなど、多くの人物が挙げられる。その代表選手が『こころ』の先生であり、『それから』の代助である。漱石にとって高等遊民とは何か、という興味深い問題がここに浮上するが、それはまた後の機会に譲らねばならない。
 青山にある長井家から離れ、代助は神楽坂の一画に居を構えている。父や家からの精神的束縛からは巧みに逃れ、それらからの物質的恩恵には充分に浴しながら。代助が暮らす家についてのまとまった描写はないが、安楽椅子の存在だの、焼麺麭(やきパン)に牛酪(バタ)を付けた朝食だのから、洋間や洋式生活をも備えたものであり、さらに書生と賄いの婆やを同居させているのだから、ある程度以上の広さを持った家が想像される。下等遊民の身である僕などからすれば、羨ましい限りの贅に見える(僻むな)。更に加えれば、代助は三十歳で独身である(嗚呼!)。
 神楽坂は、当時、山の手きっての繁華街であった(無論、現在も東京を代表する繁華街の一つであるが)。毘沙門天(善国寺)を中心に、各種の商店、飲食店、寄席、そして花街を持っていた。代助の家は、神楽坂の表通りから地蔵坂を登った先の袋町に設定されている。この坂は、藁を商う店があったところからかつては藁店(わらだな)という通称で知られ、かなりの急坂である。この藁店の急坂を、産後に心臓を弱くしている三千代が、突然の雨に追われ息を切らしながら登って代助の家を訪れる場面がある。
 早稲田喜久井町で生まれ、早稲田南町で晩年の十年をすごした漱石にとって、神楽坂は最も身近な生活空間だった。ここで買物をし、食事をし、落語を聴き、縁日を楽しんだ。そしてそればかりでなく、忘れ難い青春の思い出を持っていた。『硝子戸の中』(ガラスどのうち)に、こんな挿話がある。
 神楽坂と大久保通りの交差点の東北側をかつて肴町といったが(現・神楽坂五丁目)、ここに漱石の次姉ふさの嫁ぎ先があり、その家の真向かいに東家という芸者屋があった。
 「私はその頃まだ十七、八だったろう、その上大変な羞恥屋(はにかみや)で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にもいわずに黙って隅の方に引込んでばかりいた。それでも私は何かの拍子で、これらの人々と一所に、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢らなければならないので、私は人の買った寿司や菓子を大分食った。」
 この、いかにも青春前期らしい、淡々しい異性との記憶は、漱石にとって案外とそう単純なものではなかったらしいという気もしているのだが、それはまた別の話になる。とまれ、代助が住む神楽坂は漱石愛着の地であった。
 一方、平岡と三千代が帰京後に暮らすことになる小石川表町は、伝通院(寿経寺)の裏あたりになるのだろうか。その家は、細かくこう描写されている。
 「平岡の家は、この十数年来の物価騰貴に伴れて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、尤も粗悪な見苦しき構えであった。(略)門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨張に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割乃至三割の高利に廻そうと目論で、あたじけなく拵え上げた、生存競争の記念(かたみ)であった。」
 代助の神楽坂の家とはおよそ対照的な、粗雑で殺風景な家の在り様が想像される。平岡と三千代の夫婦関係を暗示するような家だとも言える。いや、漱石は明らかにそういう意味で、平岡と三千代を小石川表町のそうした家に住まわせているのだろう。
 小石川表町もまた、漱石にとって旧縁の地であった。伝通院の裏手にある法蔵院に、漱石二十七歳の時、間借りをしていたことがある。この頃の漱石は神経衰弱が嵩じていた時期で、法蔵院に暮らす尼僧たちと一悶着のあったことが、鏡子夫人の『漱石の思い出』にある。
 こうして漱石は、自分に深い馴染みのある地を選び出し、代助には牛込台地の、平岡と三千代には小石川台地の、それぞれの高みの空間を生きる場所として与えている。このような場の設定が、『それから』の物語世界を根底の部分で支配することになる。
 三年ぶりの再会の後、精神的にも肉体的にも夫の平岡から疎遠に扱われている三千代に、初め代助は同情の念を覚え、それが時間の経過の中でやがて愛の自覚へと変化し、そもそも平岡のために取ったあの時の自己犠牲こそが、自分本来の意志に反していたことを今さらながらに気が付く。
 ためらいつつ、代助は三千代に逢いに行く。しかし、スンナリと平地を直線的に近づけるわけではない。牛込台地の高みから坂を下りて、次には小石川台地の坂を上がって高みに到らなければならない。代助と三千代の間は、地図上の距離にすればそう大したことはないのだが、地形の起伏が実際の距離以上にふたりを遠ざけていることになる。
 加えて重要なのは、この二つの台地の間には一本の川が横たわっている、ということだ。この江戸川(現・神田川)の存在が更にふたりの心理的距離を遠ざけることになる。
 今でこそ誰もそんな風には思わなくなっているけれど、かつては、川のこちら側と川の向こう側とでは明らかに世界が違っていて、いわゆる川向こうは異界そのものと信じられていた。明治近代に生を享けた代助や三千代がそれ程に思っていたわけではないだろうが、それでも現代の人間よりはずっと川に対する特別な感情が強かったにちがいない。代助も三千代も、そこに川があることによって、より距てられていると感じたことは確かだろう。
 「散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。(略)代助は時々橋の真中に立って、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直に通っている、水の光を眺め尽して見る。それからその光の細くなった先の方に、高く聳える目白台の森を見上げて見る。けれども橋を向へ渡って、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になった。」
 漱石は、代助と三千代を、同じ平面上には置かず、坂を下り、坂を上がらねばならぬ二つの台地と、その間に渡らねばならぬ一本の川が流れているという、高低差と心理的負荷を持った特殊な地形の上に位置づけている。代助と三千代の、現実における愛の成就の困難さは、この舞台設定そのものが何よりも如実に物語っていると言えるだろう。
 


<脚注>
「蝉」「麺」の2字は、原文では異体字があてられていますが、Webの制約上、表示できないため変更致しました。
原文では以下の通りです。
・蝉(虫へんに、單)
・麺(麭と同一のへんに、面)