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2002年08月号 掲載 

豊島家住宅 
 
 

豊島家主屋。ルドフスキーは「この日本の四国の農家は、その外観から判断すると、聖なる神殿とも思われる」と記している。
 松山インターから高速道路に入ったときに丁度、携帯が鳴った。すぐ先の左手コンクリート壁の前にある余地に車を止めた。電話が終わって、ふと壁の向こうを眺めると、田圃の中に、かつて一度見学させてもらったことのある国指定重文の豊島家住宅が見えた。高速道路のゲートだから、いつもすぐに通り過ぎる。窓外の風景などみるわけもないから、少し面食らった。車の外に出て、ほんのしばらくの間、白壁の塀に囲まれた豊島家の姿を眺めた。
 松山市井門町、昔の土佐街道に面する豊島家の主屋は宝暦八(一七五八)年に建てられた。人々から井門の八つ棟造りと呼ばれる有名な建築だ。主屋と表門、長屋門、長屋、米倉、衣装倉・中倉・附塀などの建造物が昭和四十五年に国の重要文化財に指定されている。豊島家は、井門村を含む浮穴郡二十五ヶ村を差配した大庄屋。幕府の巡見使がやってきたときはその宿にもなった。  それからしばらくたって松山に出かけた日の帰り道、高速のインターに入る手前から脇の道に入り、内川を渡った。適当に見当をつけて走るとすぐに高速の上から見た田圃と豊島家が見えて来た。私が、かつてたずねたときは国道三十三号線から細い道に入って、すこし迷った記憶があるが、その日はあっさりと行き着くことができた。
 今から約四十年ほど前、ニューヨーク近代美術館で、世界中の風土的建築を紹介する展覧会「建築家なしの建築」展を開いたバーナード・ルドフスキーの『驚異の工匠たち 知られざる建築の博物誌』(渡辺武信訳一九八一年鹿島出版会)第七章「消えゆく風土性」の中にこの豊島家の写真が掲載されている。
 日本に住んだことがあるルドフスキーは実際に豊島家を訪れたのに違いない。ルドフスキーはこの「四国の農家」は、パンテオンやピラミッドやヴェルサイユ宮殿のように左右が均衡した対称性を持ってはおらず、また仰々しい厳粛さを示すこともないが、品位を保つために不可欠の個性(アイデンティテイ)を生き生きと、豊かに保持していると言っている。そして、建築の持つ「風土性」は都市社会には決して見い出せない優れた作法の掟なのだとも書いている。
 私はルドフスキーの撮影した側の田圃に立って主屋を眺めた後、家の方にお断りして庭に入れていただいた。雨戸が立てられていて、庭には蝉がうるさいほどに鳴いていた。敷地面積が約三千平方メートル、建築延べ面積が九百七十五平方メートル。もちろん大庄屋らしい宏壮な住宅ではあるが、不思議に威圧的な雰囲気はない。

家鴨が水浴びをしていた。
 外に出て、田圃の中からもう一度主屋の方を眺めてみた。調和に満ちた静謐な表情に不思議な感動をおぼえる。風土と語り合いながら形作られたこの家の個性(アイデンティテイ)には「品位」という言葉がふさわしいように思えた。ルドフスキーが、消えゆく風土的建築の代表として、数ある日本の農家の中から、豊島家を選んだのがよくわかる気がした。
 
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