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2005年05月号 掲載 

幸徳秋水と宇和島 
 
 

中村の一条氏の城跡に建てられた「四万十郷土資料館」からの眺め。
 先月号に、夏目漱石の同僚であった漢学者左氏珠山の墓がある宇和島市神田川原の日蓮宗法円寺で、若き日の幸徳秋水が寺の下男をしていたと書いた。五月の連休中にたまたま、高知県四万十市になった中村を訪れた際に、秋水の墓を再訪し、郷土資料館にある詩碑や遺墨を見てきたこともあり、少しだけ宇和島と秋水のことを辿ってみたい。
 西尾陽太郎著『幸徳秋水』(吉川弘文館人物叢書20)によれば、明治二十(一八八七)年九月に向学の志に燃えて、三度目の出郷をした秋水は、 林有造(宿毛の岩村家の次男)の書生として、北海道庁長官岩村通俊(宿毛の岩村家の長男)の留守別荘に起居し、神田猿楽町の英学館に通っていた。

郷土資料館に展示された秋水夫婦の写真と原稿。中江兆民や小泉三申ら関連の人々の資料もある。
 学資はほとんどなく覚悟の上の苦学生活であったという。ところが、その年の暮、土佐自由党らの反政府活動を、草案が完成したばかりの憲法に対する重大な脅威と考えた伊藤博文の政府が、勅令をもって「保安条例」を発布するという出来事が起きる。民間の有力者五百七十名が有無を言わさずに東京府下から退去させられ、中でも土佐人に対する監視は峻烈を極めたそうだ。放逐は小学生徒から鰹節商にまで及び、秋水も当然、中村に送りかえされるという憂き目にあった。秋水が宇和島に来たのは、故郷での絶望と失意の生活の中で四度目の出郷を試みたときのことであった。 明治二十一(一八八八)年六月二十四日、秋水は宇和島から長崎に赴き、清国(当時)に渡航するつもりで中村を発った。しかし、旅費の欠乏で目的を果たすことが出来ず、七月から宇和島自由党員高木正行の家に寄食、さらに法円寺で下男仕事をしたという。九月に退去令が解除された後、秋水は十月に宇和島を去って中村の家に帰った。その後、秋水は友人のつてで大阪に行き、生涯の師と仰ぐことになる中江兆民と出会うことになる。兆民四十二歳、秋水十八歳の時のことというが、それはまた別の話である。
 中村の裁判所の裏手にある秋水の墓は、私が学生の頃に訪れた三十年以上も前の時とは異なり、道標や案内板が新しく立派に整備されていた。旧中村市議会が、今はフレームアップであったことが明らかになった大逆事件の名誉回復が進む中で、秋水を顕彰する決議をしたそうである。元々郷土の輩出した偉人として秋水を誇りに思う人が多かったのに違いない。 裁判所の建物も改築されていて、ずっと日陰の存在だったものが急に日向に連れ出されたような感があった。

郷土館のある城跡に秋水詩碑がある。 「区々成敗且休論/千古唯応意気存/如是而生如是而死/罪人又覚布衣尊 死刑宣告之日 偶成 秋水」。中国文学者一海知義の釈文を挙げておく。「こまごまとした成功や失敗について、今あげつらうのはやめよう。人生への意気を捨てぬことこそ古今を通じて大切なのだ。このように私は生きてこのように死んで行くが、罪人となって改めて無官の平民の尊さを覚ることができた。」

幸徳秋水の墓。
碑銘は小泉三申の書。
墓碑近くにある案内板に中村市内の秋水関係地や遺墨などを見るための親切な説明がある。

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