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2005年09月号 掲載 

日浦紀行余談 
 
 

円福寺参道
 先月、松山時代の漱石が吟行に出かけた松山市日浦を取材した。日浦には何度か出かけていたのだが、今までは円福寺を訪れるばかりで、新田義宗や脇屋義治の墓所をたずねてみたことがなかった。さらに、漱石が歩いた湯山の旧道の踏み跡を少しでもたどりたいという思いがあった。今回は青波谷の古い公民館の前で両新田神社へ導く、万延元年の道標を見ることが出来た。今回も又、実際に漱石が歩いた道を自分の足で辿ることは出来なかったし、ダムやトンネルが出来て山や渓谷、道路の風景も大きく変わってはいる。しかし、旧道がまだなんとか、辿ることができるということだけはわかったのが収穫だった。
 漱石が句に詠んだ山裾の畑の中の墓所は心にしみる、ひっそりした風景だった。畑の中の五輪が、新田義宗の墓なのか脇屋義治のものなのか、はっきりしなかったし、県立図書館で借りた伊予史談所収の景浦稚桃の「新田義宗義治と伊予」を読むと、両公らが、実際に伊予に来て伊予で亡くなったかどうかについては、史料を博捜すると大きな疑義があるという指摘がある。

青波の公民館のあたり
 しかし、現地を訪れると、義宗が杖にした椿が根付いて巨木になったという地元の人々の口碑の方がはるかに「史実」に近いという思いが高じるのを禁じ得ない。両公が伊予に来て亡くなったという史料をいちいち上げながら、その年代的矛盾を指摘した稚桃も、地元の伝説や口碑の多さに、腰がくだけて、伊予に義宗を祭神とする新田神社が多いことや、新田義貞の弟の脇屋義助が今治の国分寺で病没したことをあげながら、今さら否定するほどの確証もまたないのだと結論で書いている。
 円福寺には実際に、漱石が見た南蛮鉄の武具や位牌もある。秋が深まった頃に旧道踏破の再起を期したい。
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