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2006年01月号 掲載 

砥部の砥石山 
砥部町外山 
 

砥部町外山の砥石山遺跡。
見事に露出した砥石の層理が観察できる。
 村松貞次郎の遺著『道具と手仕事』(一九九七年二月)にある愛媛の砥石山探訪記を読んで、何度か伊予市唐川の砥石山をたずねた。最初に行った時に、道を聞いた農家の男性が、たまたま、砥石山で採掘作業をしたことのある人であったため、トイシの層理が露出した崖が見える場所やトロッコの通う坑道の入口にある作業小屋の廃墟に案内して貰うという幸運があった。村松が訪れた一九七四年から十数年の後であったが、既に砥石の製造は完全に終息していた。唐川地区の砥石山は、砥山の中興発展の功労者と言われる大洲藩士豊川堤という人が発見した優秀な鉱脈であったそうだ。村松が訪れたのはその伊予市の唐川地区と砥部町の外山集落であるが、私は砥部町の砥石山を一度も見たことがなかった。昨年、たまたま書店の店頭で、幕末の今治藩医半井梧菴がまとめた地誌の現在を訪ねる今村賢司著『「愛媛面影」紀行』という本を手に取った。砥石山の挿画がある頁を開いてみると、そこに「愛媛面影」の砥石山の挿画と並べて掲載されていたのは、砥部町の外山集落に残る砥石山の写真であった。村松の砥部の砥石山に案内されたときの詳しい記述を思い出し、先日この砥石山の跡を訪ねてみた。
 砥部焼伝統産業会館で道を尋ねた。窯元が点在する五本松を過ぎ、伊予市に続く県道を走る。途中、和田川に掛かる橋のところで道がカーブするが、そこを左に曲がらず、まっすぐ川沿いの細い道に進む。伝統産業会館の人が「ちょっと迷ったかと不安に思うかもしれません」と言っていたが、それほどでもない。道が狭く荒れた感じなので心細い感じがするが、意外なくらいあっさりと行きついた。
 給水タンクの前に車を止め、木の間隠れに見える砥石山の方に向かって、トロッコを通した小さなトンネルの入口の脇の道を上がった。すぐに、空が広がり、左手に遮るものもなく砥石山の見事な層理と採掘抗が見えた。山の手前は均されて小さな土のグランドがつくられている。崩落の危険があるので、簡単な柵が設けてあって、坑内への立ち入りは出来ない。崖の直下に取り付くと、小さな案内板があって伊予砥の歴史もきちんと説明してあった。
 人影もなく、なんとなく荒涼としているし、道すがら、そこかしこに立つ「マムシに注意」という立て札も恐ろしい。しかし、伊予砥の遺跡を見るならここが一番だろう。なにより、砥石の層理や坑道の観察がしやすい。砥部という地名、砥部焼とその材料となった砥石屑の関係からしても先ず最初に訪れるべき所であったことを思い知った。マムシさんも今は冬眠中だろう。


梅野窯の梅野家の茅葺き。 梅野窯には、砥部焼の歴史を通観できる優品を集めたギャラリーがあったが、 今は閉ざされて観ることが出来なくなった。登窯の跡は健在。

道を尋ねた「砥部焼伝統産業会館」に展示されていたバーナード・リーチの砥部での作品。 数年前に訪れた時に比べて展示が充実した気がした。砥部焼の歴史と現況がよくわかる。

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