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2006年02月号 掲載 

石畳街道と隠れキリシタン 
 
 

伊予市双海町への峠から山中に入った林の中にある
十字架を刻んだ大師像
 内子町の喫茶店で友人と牛の峰に登る話をしていた。その時に、石畳街道に点在するお堂に、隠れキリシタンの遺物と思われる十字架が刻まれた大師像があるという話を聞いた。何年も前に、郷土史家の先生に案内してもらったことがあるという。今は、ほとんどのお堂が施錠されていて、それらの十字架が刻まれているという仏さまを拝することは難しいということだったが、双海への峠道から山中に入った場所に一体だけ露座の仏さまがあるというので石畳に出かけたときに現地へ案内してもらった。写真の大師像がそれである。
 伊予の国はキリスト教との縁が深い。十六世紀末、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられて十数年の後にはすでに道後に教会と牧師館があったという。伊達以前の宇和島藩主富田信高もキリシタン大名であったし、十七世紀初頭、徳川家康の禁教令から家光の治世にかけての苛酷な弾圧の時期には、伊予出身の殉教者の名が数多く伝えられている。
 さらに、芥川龍之介が大正五年十二月七日、漱石の死ぬ少し前に脱稿した短編『尾形了齋覚え書』は、十字架に掛けられたキリストと弟子たちの受難と復活の劇を、棄教を迫られた母子のドラマに置き換えた話であるが、その末尾には、まことしやかに「伊豫國宇和郡----村 医師 尾形了齋」と記されている。芥川は誰もがまるで、実際の覚え書が存在したかの如くに錯覚するほど見事なフィクションをつくりあげているが、なぜかその短編の舞台は伊予の国なのである。小沼大八氏著『伊予のかくれキリシタン』(愛媛ブックス 財団法人愛媛文化振興財団刊行)によれば、伊予の国には苛酷非情な弾圧の時代から明治期のキリスト教解禁期まで生き延びた隠れキリシタンは事実としては、いないという。石畳周辺に数多く残るキリシタン遺物は最初は礼拝物として信徒によってつくられたものであろうが、完璧な弾圧の中で信仰自体が土俗的なものに解体する中で、それらの礼拝物もキリシタン信仰の本来の意味を失い、路傍の大師像や子安観音などに転化して行き、在所の人々によって大切に守られてきたもののようである。
 それにしても、友人に連れられ、峠道から人知れぬ林の中に入って小さな大師像の肩口に、はっきりと十字架を認めたときの驚きは小さいものではなかった。


石畳街道のお堂。
中の大師像の肩口に十字架がある。

青銅の磔刑のキリスト像。菊池住幸氏所蔵。
宇和島藩が没収したものが、藩医谷家に伝えられたもの。

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