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2007年04月号 掲載 

「松本山雪」散歩」 


 

砥部町の三島神社
 つい先頃、県立美術館で松山藩の初代御用絵師であった松本山雪の展覧会が開かれた。ほとんど期待せずに出かけたが、画家の名前も聞いたことのなかった門外漢の私にも予想外に面白い展覧会だった。松本山雪は生年不祥、松山初代藩主松平定行に招かれて松山に来たというが、はっきりしたことはわかっていない。山雪は松山の南土居に住み、相当の薄給ながら、藩主のもとめに応じてさまざまな絵を描いている。
 山雪の絵を見て、何が面白かったのか。戦国時代から、兵農分離がまだ曖昧な江戸初頭の徳川幕藩体制が成立した時代に生き、画家として自己形成した山雪が、定まらぬ時代の雰囲気を一身に帯び、1人の画家として、極めて例のないほど多面的な姿を見せているからではないかと思う。いくら藩主の要望に応えたとは言え、1人の画家としての個性を崩壊させかねないほどの、画題の多様さ、画域の広さ、手法の多彩さに挑んだ豪毅さには瞠目させられた。
 絵の中に、大洲藩主加藤泰温の儒臣となり、藩校止善書院明倫堂の教授となった陽明学者川田雄琴愛蔵の「黄鳥図」があった。「大学」の章句の賛は中江藤樹という。学問を脆弱とする江戸初頭の大洲藩の士風の中で、陽明学者となった藤樹と、松本山雪の関わりが事実であったとしたらこれもまた面白い。
 山雪は、自らも好み、人々にも愛された馬の絵を多く描いた。俸禄が薄かったため賣画もしたから、松山近郷には、多くの馬の絵が伝わっているという。松山地方の名家では、明月の書、蔵澤の墨竹が家宝の双璧とされると聞いたことがあったが、山雪の馬の絵も同様に扱われたのだそうだ。
 山雪の絵を見た翌日に、「山雪のやせ馬」などと呼ばれる杉戸絵があり、墓がある松山市南土居の善福寺と、「騎馬図」が伝わると言う砥部町の三島神社を訪ねてみた。万福寺の杉戸絵を見ることは出来なかったが、本堂右手の墓所に参った。帰りに、近所のお年寄りに松本家の屋敷跡の場所を聞いてみた。道路付けが変って、はっきりとはわからなかったが、お年寄は「あの辺りにお塚があった」と言いながら、寺のブロック塀の先の辺りを指さされた。屋敷はそのお塚の近くにあったのであろう。自然石のままの山雪の墓石はもしかしたら、「お塚」に立っていたものを、寺の境内に新しく墓所を拵えた時に移されたものではなかろうか。いずれにせよ、往時茫々、はっきりしたことは皆目わからなかった。砥部三島神社の境内は巨木が繁り、社殿は風格と歴史を感じさせる建物であったが、拝殿に掛かった絵馬は山雪の作品ではなかった。社家を訪ねて見たがお留守であった。


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