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2008年01月号 掲載 

建築点描 高知市散策
寺田寅彦と小島祐馬の家

 

浦戸湾に架かる浦戸大橋 対岸が種崎。浦戸側より。
寺田寅彦の最初の妻、夏子は種崎と浦戸で療養生活を送り短い生涯を終えた。

寺田寅彦記念館 大川筋の空襲で焼けた生家の址にほぼ昔の間取りが復元された。 寅彦と夏子が結婚式を挙げた座敷もある。維新後は、水路を隔てた向い側に処刑場があったそうだ。

左寺田夏子(左)、寅彦(右)の墓。高知市東久万の墓所にある。 誤って西久万に行ったところ、親切な地元の郷土史研究家の方が谷干城の墓所などを教えてくださった後に、 態々案内してくださった。寅彦の墓石には小宮豊隆の墓誌がある。
 昨秋、寺田寅彦の取材をする新聞記者の友人に付き合って高知に出かけた。友人は、寺田寅彦の評伝『寺田寅彦覚書』、『寺田寅彦 妻たちの歳月』(ともに岩波書店刊)らの著者山田一郎氏とともに、寅彦が『藪柑子集』所収の哀切な随筆「団栗」に描いた最初の妻夏子が療養生活を送った浦戸湾口に向き合った浦戸と種崎の二つの集落や寺田家の墓所などを巡り記事を書いた。寺田寅彦二十歳と夏子十五歳という極めて幼い夫婦の結婚式は高知市大川筋の寺田邸で行われた。夏子は短い結婚生活の中で胸を病み、娘を出産後、高知で孤独な療養生活を送った。寅彦も同じ病を得るが、須崎で療養、娘は祖母に預けられ、夫婦と娘はそれぞれ別の場所で暮すことを強いられる。夏子は療養の甲斐なく二十歳で亡くなった。友人の記事は朝日新聞の1月12日Be欄「愛の旅人」という続き物に出たばかりである。また、山田氏の寅彦関連の数冊の著書はまさに氏の渾身のライフワークというべきもので、寅彦の全てについて委曲を尽くしてある。夏子と寅彦についても、くわしく書かれているのでぜひ読んでいただきたい。


吉村冬彦(寺田寅彦)『藪柑子集』所収の「竜舌蘭」の舞台となった姉が嫁いだ伊野部家。
高知市朝倉。

竜舌蘭の家から少し先に行くと高知大学に行く電車道に行き当たる。


小津神社
父の利正が蒲柳の質の寅彦の健やかな成長を祈って寄進した石灯籠がある。




野中兼山が開鑿した灌漑用水路について走ると弘岡上へ行ける。

弘岡上の柿畑
 私は、愛媛の人間だから、夏子が松山の第十旅団長であった土佐人の阪井重季少将の娘であることや、今の松山三越百貨店辺りにあった天岸という御典医の邸が官舎で、安倍能成が夏子の美しい風姿を覚えていたことなどを、安倍能成の『我が生ひ立ち』などで読んではいた。しかし、山田氏の著書には、夏子のことだけでなく、寅彦と子規の極めて深い関係についても、多くの貴重な指摘がある。山田氏は私に、「松山の子規記念博物館はすばらしい。でも、残念なのは、子規と寅彦の関係についての展示が見られなかった。子規は寅彦をすごく評価していた。寅彦とはほんとうに深いつながりがあったんです。寅彦と子規の全集をお読みなさい。それが、よくわかります」と口を極められた。
 友人が仕事をしている間に、私は、市内の寅彦縁の地を自転車で巡った。寺田家の墓所や記念館、『藪柑子集』に出てくる「竜舌蘭」という随筆の舞台になった寅彦の姉が嫁いだ家も訪ねてみた。


小島祐馬邸

小島家の墓所への道

右小島家の墓所。
小島祐馬と正壽(ます)夫人の墓は上の段の左側。

河上肇が退官帰郷して老父に侍した小島を詠んだ歌。 「小島学兄 ももとせをこさせたまへと おんちちを かしづきゐますわが老博士」
生計の労苦の中で小島が万巻の書を購うのを助けた正壽(ます)夫人の歌。 「風に鳴り月にそびえて世に合わぬあるじが友となりし渋柿」 「此の夜更米洗ふ人の有るべしやと思へど明日の糧を如何せん」 「縫ひ返せ縫ひかへせといふ君が衣赤みやれしをいかが直さん」
 寅彦の取材に来た友人に会うために高知に来たが、私にはもう一つ訪ねてみたい所があった。それで車に自転車を積んできた。春野の弘岡上にある「南海の隠逸」と呼ばれた小島祐馬の墓所である。竹之内静雄が『先知先哲』(筑摩書房)に書いた小島祐馬の風貌に接し、一度その墓所を訪ねて見たいと思っていた。小島の学問には触れたこともないが、『政論雑筆』(みすず書房刊、内田智雄編)所収の「中江兆民」等を愛読してもいたからである。私は、小島の本で、兆民という名の由来に恥じぬ、実際の生活における兆民の平民主義や、幸徳秋水との師弟関係の美しさなど、数々の挿話を知ることができた。小島は、経済生活のみを抽出した社会原理を拒み、利益社会を共同社会に転換すること、家族隣保によって代表される融和と親愛の感情によって結びついた社会をどうしたら実現できるかを、学者として生涯考え続けた。専門の支那学だけでなく、フランスの重農主義の文献を蒐集して、自分が費用を負担して弟子に翻訳させていたという。小島が、大学教授の職を定年できっぱりと辞して帰郷し、老父と二人で、鍬をふるいながら読書を続けたという風土を見てみたいと思った。春野から、途中で道を聞いて、教えられた通り、長くどこまでも続くかに思える農業用水に従って、田や、柿の畑の中を通る道を走って行くと、山裾の小島邸に着いた。山を背にした宏壮な邸の手前には竹之内が書いていた書庫の建物が建っていた。小島が帰郷後に建てたこの書庫にあった厖大な蔵書は高知大学に寄贈され、小島文庫として活用されているとのことである。  門に到るスロープには同じ大きさの小さな石がきちんと敷き詰められ、その上に落葉が降りかかっていた。散歩をしていたご隣家のご婦人に伺うと、一族の墓所は隣家との間の道を山に上がり、右手に上った場所という。それは竹之内静雄が書いたままの風景であった。山田氏によると歴史学者の鈴木成高夫妻の墓所も、もうほんの少し上った場所にあるとのことであったが、私は知らずに引き返した。

 
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