第09回
 倉橋島から江田島へ
呉~倉橋島~江田島
 
 

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- 松山観光港から呉へ。右手興居島 -



- 音戸の瀬戸。平清盛が開削したという -

 8月の終わりに、友人のグループと安芸灘とびしま海道を走ることになった。東京からの参加者が半分以上で、呉のホテルに宿泊して、翌朝出発するというスケジュールだった。友人たちは広島空港から竹原を通って夕刻呉に着くという。私は、午前中に松山観光港からフェリーで呉に渡り、彼等が着くまで、一人で音戸大橋から倉橋島に渡り、江田島の小用港まで走ることにした。
 松山から、呉の航路も多島海の瀬戸内海らしい展望が楽しめる。所用2時間半、午後1時過ぎに呉に到着した。呉は、港の近くに大和をつくった巨大なドックの跡もあり、大和ミュージアムもある。町の所々に残る戦前の建築、商店街の店の名などにも、かつての軍港の面影が色濃く漂っている。まず、いせ屋という洋食屋に向う。二年前に海軍兵学校に行った時、呉に泊まって夕食を食べた店だ。気安い店で、カツ丼などなんでもおいしかった記憶があった。場所は、すぐに見つけたが残念ながら休み。すぐ隣にあったレストランでにんにくライスという焼き飯のようなのを食べた。職業体験の中学生が給仕をしている。私の服装を見て、自転車で走っているのかと店の人が声をかけてくれ、食事の後で水筒に氷水を満たしてくれた。


- 音戸大橋を渡る -


- 島の東岸を走る -


- 波多見の大浦崎-
人間魚雷回天の訓練基地があった。今は、キャンプ場や音戸高校の艇庫がある
 相変わらずのクラクラするような酷暑だが、少しからっとした暑さではある。坂を一つ越して、海沿いに走り、音戸の瀬戸にかかる赤いアーチ橋の音戸大橋を渡る。音戸の瀬戸は平清盛が開削したと伝えられ、清盛の功績をたたえる宝篋印塔を立てた塚もある。島側の進入路の螺旋状になった道を降りると倉橋島である。右方向、島の東岸を走る道路を進む。凝った設計の音戸市民センターを過ぎ、少し先のコンビニで凍らせたスポーツドリンクを買い足す。海沿いを走って二キロほど行くと波多見の大浦崎という美しい岬と砂浜のある公園に出る。ここにはかつて、人間魚雷「回天」の特攻訓練基地があったという。今は、音戸高校のボート部の艇庫があり、高校生がタイムをとりながらランニングをしていた。訓練基地の記念碑はその艇庫のすぐそばの公園の中にある。公園の中の道を抜けて海岸の道に出ると、八幡山神社がある。ここには特種潜航艇の記念碑がある。呉や江田島に近いせいか、このあたりには戦争遺跡が多いようだ。八幡神社は道路から参拝し、そのまま進む。干潮の牡蛎の養殖場を見ながら先奥という集落に入る。ここには、広島にいる友人の叔父さんの家があり、38年前の学生の頃に、一度来たことがある。友人と叔父さんの仲間と一緒にインドとネパールを旅したこと があったが、その叔父さんの家に一晩泊めてもらい旅の仲間と再会したのであった。実は今回出かける前に広島の友人に電話して、もしかしたら自転車で叔父さんの家の前を通る時に声をかけるかも知れないと伝えた。先奥にはいると家はなんとなくすぐにわかった。門が開いていて、中を見ると戸が開け放ってある。叔父さんの家は庄屋の家柄で、昔ながらのお屋敷である。門の手前に植えられた松の木の脇に自転車を置き、「こんにちは」と声をかけると、間を置かずに返事があって、叔父さんが出てこられた。どうも友人が電話をかけていたようだった。すぐ挨拶して行くつもりだったが、すすめられるままに上がり込んで30分近く話し込んでしまった。以前に会ったのはおじさんが30代後半の頃で私が二十歳の時だ。しかし、お互いにすぐにわかった。三週間ほどの旅、ネパールのカトマンズと近郊、ポカラ付近、パトナからベナレスに行き、カジュラホ、アグラ、デリーとまわって最後はカルカッタだった。なつかしい思いが湧いて、迷惑と知りつつ、つい長居をしてしまった。「また自転車で来ます」といって辞去した。


- 牡蛎の養殖場 -


- 先奥の友人の叔父さんの家 -



- 宇和木峠を越え、倉橋本浦を見る -


- 本浦の豪壮な民家 -

 先奥の先で小さな峠を越して島の西岸に出て、さらに南に進む。右手に江田島が見える。しばらく、走ってから道が分岐する。左の旧道に入る。今日いちばんの急坂が続く。つづら折りの道を息をきらしながら登りきると切通しがある。宇和木峠の頂上である。道はそこから一気に倉橋の町に下る。左手には頂上が花崗岩の巨岩で松がまばらに生えた標高400メートルほどの火山が見える。ほぼ下り切った頃に新しく抜けたトンネルの道と合流し、さらに下ると海に面した倉橋本浦の町中に入る。少し寂れた感じはするが、かつての賑わいと歴史を感じさせる町並みである。古代以来、瀬戸内海航路の寄港地として、中世には海賊倉橋多賀谷氏の本拠地として栄えた港町である。 今も、神社が多く、豪壮な民家もある。
少し先の今日の目的地桂浜まで行き大鳥居をくぐって砂浜に出た。海水浴の家族連れがいる。一家族だけ。かつての瀬戸内海の美しさを思わせる静かで美しい砂浜だ。倉橋島の古名は長門島といい、この砂浜の松原に、奈良時代に遣新羅使が船泊して作った歌が万葉集巻十五にあり、万葉集遺跡長門島松原として県の史跡に指定されているという。
しばらく海を見て休んだ後、桂浜神社に参拝した。本殿は室町時代の棟札があり国の重文になっている。桂浜神社から、倉橋本浦の町に戻り大神社に参拝した。広島の友人に電話をしたときに、親戚が宮司をしている神社だから参拝して来いとのことだった。参道の脇に古い民家が二三軒建っていて、神社はその先の石段を上がった海を見下ろす、山裾の高台にあった。境内には、杉や桧の巨木が多く、人影はなかった。参拝した後、木陰で少し休んでいたら、海の方から涼しい風が吹いてきた。
 倉橋島の海は思いの他美しく、もっと島の南まで行きたかった。友人の話では鹿老渡というところまで行くと一段と海がきれいになるそうだ。しかし、今日は少し時間がなくなってきたので、次回を期すことにした。


- 桂浜神社本殿。重文 -


- 大神社参道。 -
左奥の山は、火の山。かつて頂上で烽火を上げたという


- 桂浜 -
かつて倉橋島は長門島といい、この海浜は、長門島松原と万葉集に歌われている


- 今も松原がある -


- 江田島が見える -


- 早瀬大橋を渡る -


- 早瀬大橋の上からの風景 -

 帰りはトンネルを抜け、島の西岸に出て、江田島を右手に見ながら早瀬大橋に向う。藤脇という集落のたばこ屋さんで、アイスクリームを食べて少し休む。その少し先の分岐を左に進む。小さな港をひとつ過ぎて少し行くと正面に早瀬大橋が見えてきた。右手の橋への登坂路に入り、全長623mのトラス橋早瀬大橋を渡る。昭和48年の完成というから、以前に倉橋島に来た1年前に完成したようだ。満潮時の海面からの高さは36m。自転車を止めて橋の下の集落と走ってきた方向の写真を撮る。そろそろ五時が近くなってきたので先を急ぐ。大君を過ぎて、直進し県道に入る。一度海から離れ、しばらく走ると、右に見えていた海が左側になる。図書館や警察を過ぎてさらに行くと。道は海から離れて、左に古鷹山を見ながら、海軍兵学校の跡である、海上自衛隊第一術科学校の前を通る。そこから、少し先でやや急な坂道になるが距離は短い。、登りきって下ると小用港はすぐそこだ。20分ほど港で待って、18時37分発のフェリーに乗る。午後七時前に呉に帰りついた。大急ぎでホテルに戻りシャワーを浴び、東京の友人たちの食事場所「海軍さんの麦酒館」に向う。川沿いにあるビアホールである。友人たちは、室内の大きなテーブルに陣取っていた。川を眺めながらの屋外の席は満席だそうだが、夜になっても外はかなりの暑さで、かえって好都合だった。ビールはいろいろな種類があり、とてもおいしかった。
 食事が終わってホテルに戻ると、フロンドに伝言メモが残されていた。友人の叔父さんと一緒に行った旅の仲間で、呉に住んでいるUさんがホテルを訪ねてくれたのだった。メモにあった番号に電話した。友人の叔父さんから電話があったそうだ。近いからといって、Uさんはもう一度ホテルに来てくれた。今は高校で美術を教えているという。お互い年をとったが、いっしょにインドやネパールをめぐってからそれほど長い時間が経った感じがしないのは不思議だった。Uさんの家は音戸大橋の呉市側の警固屋町にある。日中に、倉橋島に渡る時に近くを通っていたが、そのときは全く失念していた。Uさんは、週に一度は友人の叔父さんに会うという。1時間近く話し、ゆっくりの再会を約して別れた。次は、倉橋島をじっくりまわり、島の南端まで行って見るつもりだ。


- 江田島から呉へのフェリー。所用20分 -



- 翌日も、快晴 -
大崎下島の御手洗では、町と島々を見下ろす公園に上がった。登りはきついが絶景

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