第15回
 倉敷・児島日記 その5
永瀬清子生家と閑谷学校
 
 

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- 永瀬清子生家 -


 永瀬清子生家と閑谷学校

- 永瀬生家の井戸や畑 -
永瀬はこの地で本格的に農にいそしんだ。


- 生家の前の溝 -


- 和気清麻呂の小祠 -

 5月14日土曜日、児島のアパートで、朝のNHK ローカルニュースを、トーストをかじりながら見ていたら、詩人の永瀬清子の特別展が生地熊山にある記念館で開かれているという映像が流れてきた。金沢の知人が以前からたずねてみたいといっていた記念館のことだろう。明くる15日の日曜日、天気もいいし、ひとつ出かけてみようかと思い立って朝の9時に家を出た。熊山は今は合併で赤磐市。旧の住所で言うと熊山町松木になる。カーナビにたよって四十分ほどでたどり着いた。熊山は他国のものにも知られた吉井川に沿った町である。新幹線や高速道路、工場などが風景を切り裂いているが吉井川は今もなおたっぷりと流れているかに見えた。目的地には、病院と農協と公民館がならんで建っていた。公民館から出てきた老人に永瀬さんの記念館はと尋ねると、奥の建物の二階だという。公民館の一階を通り抜けて、向い側の建物の二階に上がると、ロビーの様な場所があって、永瀬の肖像や詩集、原稿などがガラスケースに入れて飾ってあり、年譜なども、パネルで展示してあった。階段のわきに草臥れたソファがあり、ビデオで永瀬の生涯や朗読を見ることも出来るようになっている。ボンヤリ見ていたニュースで勝手に独立した記念館があって、大きな展観をやっているのかと思っていたが、つましい図書館の入口の脇に、常設展の、企画による展示替えという形での特別展だとのことだった。施設に今風の立派さはないが、内容が貧弱だと言うことではなく、解説のビデオもよくできていたし、展示も充実したもので来てよかったと思った。
 図書館の入口のドアが10時に開いたので売っているという資料について司書の女性に聞いたら、それはさっきの管理人が知っているとのことだった。永瀬の生家についても土地の人間でないのでうまく教えられないとのこと。私の故郷でも、平成の大合併以後、特に目につくことだが、よくあることだ。合併すると、役場の職員はローテーションで広域をまわることになり、自分の在所と同じように、職場のある地域のことを手に取るように答えることが出来るとはかぎらない。ルーティンの仕事に関わりのない地名や地域の歴史文化に関わる話題に対する質問は、リストラされる場合が多い。無理もないことだが、記念館のある図書館で、ご当地出身の永瀬清子のような詩人についてさえそうなのだ。
 結局、さきほどの老人にたずねた。すぐにわかった。修復中という生家は病院と農協の間の道を山の方へ入ったところにあった。蔵の屋根が落ち、母屋もシートをかけたまま、朽ち果てるままに放置しているものと見受けられたが、屋敷内に庭や井戸が残り、里山の雰囲気が素晴らしい所だった。永瀬が農に就いた畑や田圃が屋敷の下に広がっている。前の道ぞいの溝で子供が遊んでいた。近くには、和気清麻呂の分骨をしたという墓所などもある。永瀬は戦後はここに住んでいたというが、後に岡山市に移った後、人に貸していた時もあったようだ。整備の予定があると公民館の老人は語っていたがこれだけ、傷んでいるのでは難しいだろう。
 永瀬は昭和40年代初期に山陽新聞に二年間にわたって連載された岡山在の文化人を対象とした「歳月の記」というインタビュー記事に登場し、この生家や両親のことを語っている。「私の生まれた家は、明治初年に建てられたもので、二階には窓がなく、ちょっとしきりをすると、外から部屋があるとは見えない変った構造の部屋もあります。不受不施派がご法度だった頃、同派のお坊さまをかくまうために造られたということです。若くして土地の旧家の当主となった父は、ふかい信仰を持っていましたが、山陽高女を出た母の方は、家がかたい不受不施派でありながら、一面ではすすんだ民主的な考えを身に備えていました。父のまじめ、温厚な人柄に対し、母は情感的な性質を持っていて、私が詩を書くようになったのも、多分に母の影響があったのだろうと思います」。
 永瀬は父の連太郎が金沢電気会社の技師長になって金沢に赴任したため、金沢で少女時代をすごした。「金沢というところは北国の暗い城下町といった印象で、家老だった家の庭でツルがするどい声で鳴いていたのを覚えています。何か物に魂があるようなムードが漂っていて、子供の頃、カワウソが街灯に化けて立っているとか、身投げした人の遺体が川の上流に向かって流れたとかの話をよく聞かされました。町には、ばけもの小路、カワウソの川など、子供たちに信じられていた場所が、あちこちにありました。泉鏡花、室生犀星らの作品に見られる薄暗い伝説的な、物のけが実際に生きて動いているような感じのする町でした。幼時のこうした環境が私の想像力を育てるのに役立ったかもしれません」とも言っている。
 永瀬が実際に詩を書き始めたのは大正末から昭和二年にかけての名古屋の愛知県立第一高等女学校時代であったという。佐藤惣之助編集の詩誌「日本詩人」に拠って詩を書き続け、就職、結婚後も続けた。第一詩集「グレンデルの母親」を出版して上京。第二詩集「諸国の天女」の序文は高村光太郎が書いた。永瀬はその後、空襲が激しくなった昭和20年一月、夫の岡山転任で岡山市に戻った後、戦後の混乱期を避けるため、この熊山の生家に戻って農業を始めた。戦後の暮らしが落ち着く中で永瀬は岡山永住を決意する。
「東京へ行くことはやめよう/心のかぎり逢いたいものは戦火とともに逝ってしまった。/たとえ都会に出かけたとて/時の瀑布はのぼれない/私の冬の仕事は田んぼの土おこし/それは次の季節のため/自然のめぐりと同じ位に必要なのだ。」(組み詩「植林」より)。
 再び岡山市内に移る迄、永瀬はこの生家で農業を続け詩を書き続けた。


- 赤磐市熊山の旧町役場にある永瀬清子記念館(展示室という場合もある) -


- 「諸国の天女」 -



- 閑谷学校 -
創建は寛文10年(1670)熊沢蕃山、津田永常らの構想により、岡山藩主池田光政による。当初から、庶民を中心とした学問所としてつくられた。明治初頭一度廃校となるも、山田方谷、西薇山らにより、再興、明治後期に新校舎が落成、大正期に県立中学となった。卒業生に大原孫三郎、三木露風、正宗白鳥、藤原啓らがいる。


- 閑谷学校の小斎 -
延宝五年(1677)築。藩主視学の際の御成の間である。こけら葺き数寄屋造で、二室からなり、納戸・浴室・雪隠が付属。


- 黄葉亭 -
文化十年(1813)に武元君立、有吉行蔵の両教授によって建てられた。頼山陽、管茶山らが来遊。山陽に「黄葉亭記」がある。

 帰りに、閑谷学校に寄ることを思いついた。四十年以上も前、当時義兄の勤務先の赤穂にいた姉の家に寄った帰りに訪れた記憶が闡明に残っている。またナビにたよる。吉井川から金剛川沿いに走り、吉永から山に入った。道が拡げられ、途中高速が空を遮って、風景が激変していた。昔、赤穂線の駅から薇山西先生追慕の碑という石柱を見て、田圃の脇に続く道を歩いて登った記憶があったが、そんな感じは少しもない。立派な道路が公園のようになった学校の前庭まで続いている。少し意気消沈して車を停めたが、美しく石を積んだ塀に囲まれた学校の建築と背後の山の佇まいはそのままだった。しかし、右手に、巨大な青少年センターが建っていて、かつての静謐な雰囲気はほとんど失われた。施設の意義はともかく、この地の風致を損なってまで、このような自然の改竄をする必然がどこにあるのかと思わざるを得ない。ちょうど、200人近くの子供らが建物の前の広場で先生の話を聞かされていた。津田永忠の邸址の前を通り、渓谷沿いに黄葉亭に至る道も、人工の加え方に配慮が不足している。水も濁った。先人が辛苦して、築き、伝えた国宝閑谷と周囲の景観に対して、このような愚劣な土木工事を加える必要がどこにあるのだろうか。どこも、いつまでも昔と同じにはいかないが、わざわざここをこのように「観光化」するのは信じられぬことである。
 帰りに、石門が拡幅された道路の脇にあるのを見て驚いた。鉄道の駅が備前閑谷だったと記憶していたが、近くで聞くと、そんな駅は過去にもなかったという。記憶違いか。備前片上からバスで閑谷まで行ったのかも知れない。山陽線の吉永駅の方が近いようだが、私が乗ったのは赤穂線であったのは間違いない。淡交社刊の焼物風土記の備前にあった井伏鱒二の紀行をその旅の前に読んでいた。その後も時たま読み返した。井伏の文章の記憶と自分の旅の記憶がごちゃまぜになった可能性もある。井伏が書いた正宗白鳥の挿話や、備前片上の三重塔や備前焼のアゲハチョウの紋瓦などのグラビアはよくおぼえている。しかし、田圃の中を歩いて、校門の跡などを見て、学校の石塀を初めて見た時の感動は今もはっきりと覚えているつもりである。
 山を下り、備前片上の「寿司一」というおすし屋さんで昼を食べた。カウンターの中で寿司を握っていたおじいさんに、吉井川で大きなスッポンを獲った話しや、子どもの頃、三重塔の寺に、葉がパチッと鳴るシキビのような木があったことなど、いろいろな話を伺った。奥から出てきた息子さんも人のよさそうな人であった。伊部にも店があるようで、中村六郎さんのことを話したら、知っていた。「備前焼の人も、昔はみんな変ったのがおおかった。今は個性がなくなった」とおじいさんがぽつりといった。そのおじいさんにも駅のことを聞いて見たがはっきりしない。片上鉄道というのがあったそうだが、それもどうもピッタリ来ない。昔歩いた道がどうなったかについて、いずれ、また自転車で再訪してゆっくり考え直してみようと思った。

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