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2003年01月号 掲載 
湯山円福寺の漱石の句碑
 

本堂 明治元年の建築
 漱石が松山に居た明治28年から、明治29年にかけてつくった俳句を読んでいると、漱石が、わずか一年に過ぎない松山時代にも、実によく歩いた人であったことがわかる。市中散策だけでなく、松山の郊外にも出かけて俳句を詠んでいる。吟行の場所には、親友子規のすすめに応じて出かけたのにちがいない。漱石の句を読んでいると、漱石は子規の愛惜する故郷の実景を「子規、見てきたぞ」とばかりに句作しているような気がしてならない。  雪がちらつく1月4日の午後、漱石が明治28年に出かけた松山市大字湯山字藤野々(現藤野町)の円福寺を訪ねた。石手川ぞいに、今治方面に向かって走る。奥道後温泉を通り、湧ケ淵トンネルを抜け、石手ダムを過ぎる。橋を渡ってなおも行くとくねる道が下りはじめ、石垣を積んだ田圃が広がる集落に出た。山裾に古寂びた寺が見える。参道の前で車を止めると円福寺という石柱が立っていた。冬枯れの山里に日没が迫り、雪がちらつく天候のせいか、少し心細くなるくらいに遠くまで来たと感じる。  参道を上り、観音堂に詣ってから、左手の本堂に回り、呼び鈴を押した。しばらくして、住職のご夫人が出てこられた。間違いなく明治28年の冬に漱石が訪れた寺であるとのことだ。漱石は、円福寺に、南北朝時代の武将新田義宗(新田義貞の第三子)と脇屋義治(新田義貞の甥)の墓と遺品があると聞いて出かけてきたという。遺品の太刀や甲冑を見て「つめたくも南蛮鉄の具足哉」「山寺に太刀を頂く時雨哉」と詠み、墓に参って「塚一つ大根畠の広さ哉」「応永の昔し也けり塚の霜」と詠んだ。義宗、義冶ともに応永12年(1405年)に病死したという。

円福寺の下を通る旧街道と石灯籠

漱石の句碑
「山寺に太刀をいただく時雨哉」

 ご夫人は、漱石が来た当時の本街道は、奥道後の杉立の山中から青波に出て、日浦に出た荷駄が通うくらいの小さな道であったこと、本堂は明治元年に建てられたもので漱石が訪れたときのままの建築であること、本堂すぐ下の石段の脇に、住職の手になる「山寺に太刀を頂く時雨哉」の句碑が建てられていることなどを親切に教えて下さった。集落と山寺の静かな佇まいはよく昔を留めているし、寺のご夫人の話しぶりにも、この土地の人気の温かさが容易に想像できた。今度は、春先に古い本街道をたどって徒歩で訪れてみたいと思う。

参考/ 漱石全集第17巻(岩波書店)、「漱石俳句探偵帖」半藤一利(講談社)
※半藤氏は漱石の範頼、義宗らへの墓参を漱石が「清和源氏の末裔」であることと結びつけている。

 
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