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2006年10月号 掲載 
「坂の上の明治人」ノート
短期連載 最終回
四月十五日の南海放送ラジオ、堀田建設スペシャル『坂の上の明治人』の内容を パネリスト別に編集人がまとめたノートです。
中村 時広さん  - 松山市長

「子規さんという人が好きで好きで好きでたまらないんです」 

歩行町の秋山兄弟生家跡地を整備する時に、秋山家の方々に集まっていただき食事をしながらお話を伺ったことがある。お孫さんが、真之の「アメリカとだけは戦ってはいけない」という言葉を覚えているといわれたのが今も強く印象にある。
 私の好きな明治人と言うと、水木さんと同意見で、ふだんは、第一に福沢諭吉先生だ。明治に限定せず偉大な人。同時代人だけでなく、明治以降の人々にも価値観の土壌を与えた。『学問のすすめ』は総発行数七十万部は下らず。時代のリーダー達にも影響された人が多い。私は今も座右に持っていて、何時開いても、変わらない感動がある。
 正岡子規。『坂の上の雲』も発端は子規さんだ。子規記念博物館の開館の時の司馬遼太郎さんの講演記録を聴いたことがある。司馬さんの講演は、「私は子規さんという人が好きで好きで好きで好きでたまらないんです」で始まっていた。子規に対する司馬さんの万感の思いが伝わってきた。
 私にとって、『坂の上の雲』を読むまでは、子規さんは暗かった。イメージとして暗かった。俳句の近代化に偉大な足跡を残した人であることは知っていたが『坂の上の雲』で、子規さんのポジティブな生き方を知った。たとえば野球に対する打ち込み方。子規さんの生き様がいっぺんに好きになった。二十代後半に死の宣告を受ける。自分なら自暴自棄になりそうだが、子規さんは死を恐れている場合ではないと云って、病を句材にして、死の恐怖を乗り越えていく。究極の運命を乗り越える生き方に打たれた。これまで、壁にぶち当たった時は、究極の運命を受け入れて生き抜いた子規さんのことを思って、元気をもらった。
 今は、郷土愛さえ駄目と言う人もいる。しかし、自発的な郷土愛は人間にとって自然なものではないか。私は、秋山好古の晩年の姿に特にひかれる。陸軍大将で、将来の軍人としての栄達は約束されていた。その保障もあった。しかし「勝って兜……」と行かなかった、そんな、栄達競争に嫌気がさしたのかもしれないが。そういうものは全部断ち切って、軍と離れ、郷里に帰って、民間の学校であった私立北豫中学の校長になった。そして、秋山家の土地も家もいっさい常磐同郷会に寄付してしまった。郷里の子弟育成に晩年をささげたのである。


- 南海放送にて -
著作 :南海放送
 松山人は、アピールがへたなのか、土佐人が坂本龍馬を持ち出すほど郷土自慢ができない。私はあんまり悔しい時は、土佐の人に「龍馬ってお宅を脱藩したんでしょ」と申し上げることにしている(笑)。
 松山は災害が少ないし、温暖で物価も安く、なんとか食べていける。余裕がある。だから文学や俳句に時間を割く余裕がうまれる。しかし、がむしゃらさが足りない。がむしゃらになるところに感動が生まれると思うが、サッカーの応援なども少し大人しい気がする。
 背伸びせず、松山にある先人の足跡や財産を見つめて、それを大事にして、じっくりと発展させて行く。そうやっていれば、よそが放っておかないだろう。しかし、フィールドにおりて一緒にプレーしてほしい。そして、もう少しだけ、熱くなって欲しい。

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