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 2012年09月 掲載 
大分県立歴史博物館で
大分県宇佐市



 先日、中学高校の同級生で大学の教師をしている友人が、学生6人を連れての研修旅行に国東を訪れた。豊後高田から、三浦梅園の旧家や資料館などを見学し、宇佐神宮の荘園だった田染地区小崎の鎌倉時代の風景を伝える田圃や磨崖仏、富貴寺の国宝の阿弥陀堂や、大分県立博物館、宇佐神宮や神官が平安時代に差配した駅館川の土木工事の遺稿などをまわりながら、別に地域の現在の産業の様子も垣間見るという欲張りな内容の研修だ。
 最後の日に大分県立博物館で、学生たちと一緒に同館の学芸員の案内で館内を見学する機会があった。
 大分県立歴史博物館は、宇佐市の風土記の丘の近くにある。マイクロバスで田染から降りてくる学生たちがやって来るのにはまだ時間があったので、私は先に入って、戦争の展示を見ていた。宇佐の柳ケ浦にはかつて宇佐航空隊があり、愛媛県西条出身の最初の特攻攻撃で知られる関行男大尉もここにいたことがあった。城山三郎の『指揮官たちの特攻』にあるとおりである。特攻隊の展示や、支那事変の戦時国債のポスターや、戦争中の紙芝居など戦時下の暮らしについてのもの、大分出身の陸相阿南惟幾、重光葵らの書や、大神にあった人間魚雷回天の訓練基地の展示もあり、見応えがあった。
 しばらくすると彼らがやってきて、学芸員による説明が始った。最初は入口の熊野磨崖仏のレプリカである。私は実物を見てきたばかりであったが、実物に錫箔を貼り付けて型をとって制作したため、原寸と0.2ミリ大きいだけという、まさに実物そのままといってよい出来栄えだ。エキシポ樹脂製なので、手でさわってみることをすすめられる。レプリカをつくる意味について、自然の崖に彫られたもので、風化はさけられず、後世に伝える記録という意味でレプリカにも文化財としての価値があるということを学生に話された。曼荼羅がさまざまな仏たちを梵字1字で表現して、配置した悟りの境地や、世界観の見取り図のようなものという説明もあった。何のためにレプリカをつくるのかという意味について学芸員が学生たちに伝えようとする熱意に感心した。田染で、学生たちと一緒に見学した富貴寺の阿弥陀堂も原寸で、内部の彩色ともども復元されている。絵の具などは科学的な手法で推定し、そのままに再現されたという。浄土信仰や堂内の諸仏の配置、描かれている仏たちについても、懇切な説明があった。棟札は瀬戸内寂聴という。なんとなく、派手に過ぎる気がするが、本来は照明も無く自然光で見るものであり、色の強さはこれくらいでないとという説明だった。模型は他にも、宇佐神宮の本殿から、臼杵の石仏までたくさんあった。


 実物では国の重要文化財の天福寺塑像三尊仏を見せてもらった。万一の地震にも、ケースが免震ケースとなっていて、左右上下の振動に対応して破損を免れるそうだ。三尊仏は破損と風化が激しいが、天平の作風が明らかに見え、損傷のひどさにもかかわらず、文化史的意義が大きいといわれる。宇佐市西南の山地、この寺の奥ノ院に多くの平安朝の木造の破損仏と共に伝わったもので、中尊はほぼ等身大、両脇侍はほぼ四尺立像と推定されているそうだ。粗土の間から巻かれた藁縄がはっきりと見て取れるが、「みなさんが見ている藁は奈良時代の藁なんですよ」と学芸員が力説された。三尊とも頭、両手、足首から下を欠き、特に中尊などは痛ましい状態だが、当初は乾漆の上に金箔がほどこされていたという。展示室の中央にある天福寺の塔の復元模型はどことなく大和の薬師寺の塔に似ていた。
 その後、説明していただいた学芸員が企画と展示を担当されたという「姫島」の特別展を案内してもらった。黒曜石や火山の河口が沈んだ湾の話、瀬戸内海の深度の話から、ナウマン象、幕末の四国連合艦隊来襲後の長征伐時に勝海舟がやって来た話などを伺っているうちに、私は持ち時間がなくなり、館内の風土記の丘の展望室から、美しい風景を楽しんだ後、先に失礼した。
 先般愛媛歴史文化博物館で、テーマ展について、館長、学芸課長や担当課学芸員に質すことがあった。展示物への誇りも愛情も感じることが出来ず、無駄な時間を費やしてしまった。今回は学生たちと一緒にまわったせいか楽しく展示物を見ることができた。展示の説明に疑問をもつこともあったが、前提がしっかりしているのでわざわざ異をとなえるほどのこともなかった。私は、ここといわず、レプリカは正直なところ見たくはない。富貴寺もほんもののがずっとよかった。しかし、それは私の感じである。大分歴史博物館の学芸員の説明には、館が展示しているものへの愛情と、熱意がはっきりと感じられた。

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