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2000年08月号 掲載
特集 「エイズ・デイズ
第2回 企業とエイズ
産経新聞 編集局局次長 宮田 一雄氏に聞く
『エイズ・デイズ』 
2000年5月23日発行 平凡社新書
定価 本体680円(税別)
―― 宮田さんの『エイズ・デイズ』に企業に働く人にもHIV感染者やエイズを発症した人が増え、企業の果すエイズ対策への役割が大きくなってくることが書かれていますね。

 エイズはいまも完治はできませんが、四年ほど前から米国で三種類以上の抗HIV薬を併用するカクテル療法が普及し、日本でも最近は、この新たな治療法でエイズの発症を遅らせたり、エイズを発症した人が回復して再び働いたりすることができるようになりました。だから、感染の拡大を考えると、企業で働くHIV陽性者は急速に増えていることになるのですが、企業側ではまだ、その現実に対応できていないのが現状です。
 首都圏に住む三十五歳の男性が今年、インターネット関連の小さな会社を設立しました。彼は、二年前にHIV感染が判明して勤務先を辞め、その後、何度か就職を試みたのですが、HIV感染を告げた段階で全部、不採用になりました。「自分は働けるのだから、働いて生活していきたい。でもそれには起業を目指すしかなかった」と彼は言っています。
 でも、これからは、日本でHIV感染した状態で会社で働いたり、学校で勉強したりする人の数が比較にならないくらい増えてくるのは間違いありません。感染の事実を同僚や上司に打ち明けて働く人が増えてくるでしょう。そうすると、同僚の女性記者が、「子育てをしながら働くのと全く同じ」って言いましたが、そんな感覚になるかも知れません。

―― アメリカの企業でもエイズ対策は危機管理から始まったのですね。

 八十年代にはエイズがどんな病気か、みんなわけが分からなかったから、病気が地球規模に広がっていることも知られてなかったのです。だから、企業の総務や人事の担当者がHIVに感染した社員に、いきなり辞めてほしいと通告したり、会社に出てこないでほしいと言ったりして裁判をおこされ、負け続けるというようなこともたくさん起こりました。それで、社員がHIVに感染しないように、感染した場合にはきちんとした対応ができるようにという「危機管理」のエイズ対策が盛んに行われたのです。いま、もしアメリカに進出した日本企業が、八十年代のアメリカ企業の総務担当者のようなことをしたらまちがいなくバッシングにあいます。

―― 現在では、主なアメリカ企業の経営者たちにとって、エイズ対策は「危機管理」というより、「経営戦略」として認識されているそうですが。

 今では「危機管理」から「経営戦略」としてのエイズ対策が常識になっています。米国の企業が集って作っている全米エイズ対策リーダーシップ協議会のスタイルズ会長にインタビューした時、彼はエイズ対策について、「リスク・マネジメント(危機管理)は二番目で、最大の理由はストラテジック・プランニング(中長期的経営戦略)だ」とはっきりと話していました。エイズの流行が今後とくに、広がっていくと考えられるのは、新しい世紀に、国際的な企業活動の場として期待される「エマージング・マーケット」と呼ばれるアジアや中南米の国々だから、エイズ対策を避けていては新しいマーケットの開拓もできないわけです。商売の相手の国が抱える問題を理解し、対策を手助けするぐらいの気持ちがなければ、マーケットを育てることも獲得することもできないという認識に立った発言です。米国企業は八十年代にHIVに感染した社員をどのように受け入れていくかで苦労して、エイズ対策を経営戦略に組み込むところまで成長したといえるでしょう。

―― 日本の企業のエイズ対策についてアドバイスをお願いします。

 アジアやアフリカ、中南米など、いわゆるエマージング・マーケットで商売をするのなら経営戦略としてエイズ対策をやらないと商売もできないよというくらいになってもらいたいものですが、でも、最初は、個人でも企業でも、出来ることから、とりつきやすいことから始めるのが基本だと思います。 戦後の日本企業経営に大きな影響を与え、「経営の神様」と呼ばれたP・ドラッカー教授は、二十一世紀には、社会セクターの非営利組織(いわゆるNPO)が大きく成長して政府や企業と並ぶ役割を果すようになると言っています。田舎のコミュニティは温かく、居心地がいい反面、若者などは、地縁的な共同体意識がわずらわしくなって、匿名性の自由が味わえる都会に集ってくる。 ところが都会に出ると孤独に悩まされ、新たなコミュニティを求めるようになる……その孤独な都会人が求めている新たなコミュニティとして注目されているのが、NGOやNPOであるというのです。危機管理をきっちりやって、熱心に活動しているNGOやNPOを支援するというのも効果的な対策になると思います。

―― どうもありがとうございました。
―― しめくくりにエイズの現状把握の大切さについてお聞きしたいと思います。


エイズとの長い闘いが続くニューヨーク。マンハッタンに向かうフェリーから。
 自分の感染を早期に知ることは予防対策としても有効だといわれています。しかし、現実には厚生省のエイズ動向委員会への報告をみても、患者、感染者数は増えているのに、保健所で抗体検査を受ける人は減っています。エイズに対する社会的関心は薬害裁判の和解が成立した平成八年以降、大きく低下し、エイズの流行が終わったような印象すら一部には広がっています。検査の減少はそうした社会的ムードの反映とみられるのですが、検査件数が減って感染者、患者の報告数が増えているということは、HIV感染の拡大にむしろ拍車がかかっていることを裏付けているのです。エイズ対策の大きな柱であるエイズウイルス(HIV)感染の予防対策にはまず、現状の把握が必要なのですが、日本では現在、HIV陽性者数を推定することも難しい段階です。何度も言いますが、HIVに感染してからエイズを発症するまでの間には平均で十年といわれる潜伏期間があり、自分が感染していることに気づいていない人もかなりいるはずです。また仮に感染しているかもしれないと思っても、HIV陽性者に対する偏見や差別が強い社会だと、「知らない方が幸せ」といった意識が働き、検査で感染の有無を確認するような行動を避ける人が多くなることも考えられる。つまり、HIVに感染した人が安心して働いたり、学校で勉強したりできる条件を社会的に整えないと、予防対策の前提となる現状把握さえ困難になってしまうのです。
 
インタビュー・文責/編集人