2002年04月号 掲載
子規と野球、そして松山
 
日本経済新聞運動部 串田 孝義

坊っちゃんスタジアム 3月19日
 左利きの捕手にはめったにお目にかかれない。右打者が多いので左利きの捕手だと、投手に返球するにもいちいち打者が邪魔になる。盗塁を阻む送球も打者をよけなくてはならない分、時間がかかってしまう。
 近代俳句の創始者、正岡子規はサウスポーの投手にして捕手だった。投手、捕手を交互にやったそうで当時の牧歌的な「のんびり野球」が想像できる。
 子規の捕球動作は独特で、手のひらをまっすぐに立ててボールをはさむようにつかまえた。真剣白刃取りさながらの風情だ。剛速球をびゅんびゅん放る現代の野球だとこうはいかない。
 それでも野球の魅力に取りつかれた子規の熱情は並大抵ではなかった。「喀血始末」のなかでは、閻魔の取り調べで現世における行いについて問われ、こう答えている。
 「ベースボールという遊技だけは、通例の人間より好きで、餓鬼になってもやろうと思っています。地獄にもやはり広い場所がありますか。」
 子規が畏友と呼び、数ある友人のなかでも一目置いた文豪、夏目漱石の人物評によると、子規は何でも大将にならないと承知しないやんちゃ坊主だったという。野球のポジションが投手と捕手というのもうなずける。白球に触れる機会が多く、常にゲームの中心にいるバッテリーを好んだに違いない。
 「ベースボールにはただ一個の球あるのみ」「この球こそ遊戯の中心となるものにして球の行く所すなわち遊戯の中心なり」(新聞「日本」に掲載された随筆「松蘿玉液」から)
 子規は幼名「升」をもじった雅号として「野球」「能球」と著し、「の・ボール」と読ませた。ベースボールを「野球」と訳したのは一高(現在の東京大学)の後輩、中馬庚とされている。中馬が一高野球部史に記した「野球」がその起源というわけだが、中馬の脳裏に、野球に熱を上げた先輩の雅号が浮かんだ可能性は高い。子規の「野球」名づけ親説はこのあたりから生まれた。間接的には当たらずとも遠からずと思えてくる。
 今年七月十三日、四国で初めてのプロ野球オールスターゲームが子規の故郷、松山市の「坊っちゃんスタジアム」で開かれる。折しも子規の没後百年。晴れの野球殿堂入りを果たした子規はどんな思いで眺めているのだろう。
 最寄りのJR市坪駅が愛称を「野球(の・ボール)駅」とし、二〇〇三年完成予定のサブ球場は「マドンナスタジアム」と名がついた。ガキ大将タイプの子規にすれば、漱石寄りの命名にはちょっぴり不平のひと言もありそうだが、子規を原点とする松山の野球熱を語り継ぐには悪くない名前だ。
 今夏の球宴は、ワールドカップサッカーに熱狂した直後の日本全体が、野球とともに歩んできた一世紀余の歴史を振り返る貴重なひとときとなる。「野球駅」を降り、日本人にとって野球とは何かを振り返りたい。「蹴球」「篭球」「排球」とあるなかで、なぜ「野球」の訳語は生き残ったのか――。

坊っちゃんスタジアム前の子規句碑にはバットを持った若い子規の姿がある。
 米大リーグの球宴は「ミッドサマークラシック」と呼ばれる。近年、日本の球宴は放映テレビ局のお祭り騒ぎに終始してきたが、今年こそは日本野球の過去、現在、未来の時空を結ぶ子規没後百年目の「真夏の古典劇」となってほしい。
 「草茂みベースボールの道白し」
 坊っちゃん球場では子規の句碑が試合を見つめている。