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第4回 伊達の殿様が越えた道
 
 
 遠い昔、南宇和から宇和島に到る道は、城辺から僧都川(ぞうすがわ)にそって山に入り、小岩道の峠を越えて行く山続きの街道だった。宇和島の伊達の殿様が領内視察や狩猟に出かけたときに通り、幕府の巡検使も通った道である。現在の県道46号(城辺宇和島線)が、ほぼその街道にそってつくられた道だ。今では、かつての遍路道にそって走る国道56号が宇和島以南の主要交通路となったため、山の中を走る県道は人影もまばらで、通る車もほとんどない。しかし、この道は、豪壮な庄屋屋敷あり、昔ながらの宿場町あり、清流のほとりに温泉あり、美しい木造校舎ありと魅力が一杯だ。青く深い山に包まれた古道をたどり、急がぬ旅に出てみよう。

 緑の庄屋屋敷、尾崎家
 県立南宇和病院の先で僧都川を渡り、車で3、4分も走ると豪壮な17間の長屋門が見えてくる。緑村の庄屋尾崎家である。屋敷の前面に広がる田圃の中に入って眺めると、その大きさに圧倒される。それにしても、なぜこんなに大きいのだろう。宇和島藩は、初代秀宗が藩をつくるときに仙台の父親伊達政宗から6万両も借金するなど、ひどく財政状態の悪い藩だった。そのために農民から税金をしっかりとろうと寛文10年(1670)に検地を行った。間竿(けんざお)(土地の面積を測るための竿尺)は「太閤検地」で使われた6尺5寸の竿を6尺に縮め、「八十島切っての相談」と恐れられた検地奉行の八十島治右衛門が検地に反対する者はかたっぱしから切り捨てたという。この寛文検地のあと宇和島藩の庄屋制度が完成した。庄屋はいわば村長さんだ。藩財政の死命を制する税徴収の主役であるから、庄屋になると村の資産の10分の1が入ってくるほどの特権が与えられた。庄屋屋敷が豪壮なのは農村支配の権威の象徴というわけである。
 山出(やまいだし)温泉
 少し戻って橋を渡り、豊田の宿場町を見てから、山出温泉に向かう。道に沿って流れる僧都川の水は澄んでいるし、重なる青い山々の上に白い雲がくっきりと見える。1台の車とも行き会わずにバス停に着いた。橋の向こう側に城郭風の温泉が見える。隣には、ログハウスのバンガローとキャンプ場があり、川では子供達が泳いでいる(表紙)。温泉は弱アルカリ性の冷鉱泉。大浴場は岩風呂で、背後の山と庭を眺めながら、窓からの涼しい風にあたって、のんびりと湯につかることが出来る。
 僧都から上槇(かんまき)へ
 山出温泉からさらに上る。僧都は僧都川の水源である観音岳782メートルの東山麓にある。周囲を6、700メートルの山々に囲まれた僧都の棚田を見ながら、小岩道(しょうがんどう)の峠道に向かう。標高約500メートルの峠を下れば、津島町上槇である。道と田圃をへだてて、3年前に廃校になった上槇小学校の木造校舎がある。明治13年に山裾の竜華寺で宇和島藩士族の九鬼正一が開墾の片手間に村の子供たちや読み書きの出来ない人たちを寺子屋式に教えたのがこの学校のはじまりだ。正一のお孫さんの一馬さん(84歳)が今も正一の住んだ当時のままの家に健在である。「先祖は仙台から来たようです。お祖父さんは、藩の方で、食べれないから山の方へ行って芋でも植えよということでここに来たということですよ。お祖母さんは下畑地村の出です。この家は昔のまんま、140年くらいはたっとります」。
 家のすぐ前を通る細い道が昔のメイン・ストリートである。一馬さんは、伊達の殿様が鹿狩りや領内の巡視の際に、家の前に駕籠をとめ、何度もこの家の座敷に泊まったことを父上の道恒氏から聞かされたそうだ。一馬さんは、「昔はこの道1本しかなかったんです。東海道です。もう何年かするとわからんですが、今ならどこを通っとるか全部わかりますよ」と言われた。

〈参考〉
『津島町誌』、『続城辺町誌』、『幕末維新の宇和島藩』所収の「藩政改革から
農民騒動まで」(三好昌文)、『愛媛県地名辞典』、『民家ロマンチック街道-伊予路』(犬伏武彦)、『宇和島吉田両藩誌』など。

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旅のはじめに。
城辺町まぐち食堂の
オムライス。
TEL0895-72-0568

緑の庄屋屋敷、尾崎家全景。天明元年(1781)建築と伝えられる。当時の庄屋は藩の代弁者の地位に甘んじることなくあらゆる地域産業にかかわって豪農に成長した。

尾崎家の庭

入母屋造りの主屋の天井

城辺町豊田。宿場町の面影

山出温泉

小岩道の峠から観音岳と僧都村

家の前を通るこの小さな道を伊達の殿様や幕府の巡検使が往来した。九鬼正一の孫、九鬼一馬さん。

九鬼正一が寺子屋を始めた竜華寺