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2009年08月号 掲載 

 八幡浜市立日土小学校見学会


 

図書室のベランダ

 8月1日に八幡浜市の日土小学校の見学会に出かけた。保存か建て替えかで地元の意見が分かれ、曲折を経て保存改修と増築の選択がなされた。
 日土小学校は、1958年に建てられた。当時、八幡浜市役所に勤めていた建築家松村正恒が設計した一連の学校建築の1つである。軽やかで清潔な外観の、木造インターナショナルスタイルの建築である。松村は、市の職員であったが、型にはまった建築を否定する情熱があり、建物の主役である子供たちへのこまやかな気遣いのある学校建築を手堅い手法で実現した。公共建築としての役割と周囲の環境への深い洞察と周到な配慮もあり、ローコストでも本質的にいい建築をつくりたいという建築家の強い意志が手に取るように伝わってくる名建築になった。建築当初から全国の学校建築関係者の注目を集め、北は栃木から南は宮崎まで多くの見学者が日土を訪れた。
 この校舎を初めて訪れた時、両面採光による明るい教室、喜木川に向かって張り出した図書室の屋根付きベランダ、そして教室から続いて飛び出した石を張ったコンクリートのテラスなどを見て、私も快い風が吹き抜けて行くような解放感を味わった。建築家松村がこの校舎で学び遊ぶ、子供たちの自由で溌剌とした学校生活、さらにその子供たちの未来によせた希望は、徒に管理指向と効率化、数値化を強める社会と教育の動向とはおよそ異なったものであった。
 松村が自らの言葉でわかりやすく、自らの建築を語った『無級建築士自筆年譜』(住まいの図書館出版局(星雲社)1994年刊。今も入手可)や『老建築稼の歩んだ道』(県立図書館にある)を読めばこの校舎の細部にこめられた松村の思いは建築の専門家でなくとも理解出来るはずだ。


非常階段からテラスの方向を見る。
増築の他、旧校舎の脚元の耐震補強、屋根の耐震補強、床の耐震補強、フリーアクセスフロアーなど、多くの改修が施され、4億数千万の巨費が投じられている。

靴箱

 松村は日土小学校について「窓台も低くして目にしみるのは川向こうの山の緑のみです。薫風にのって蜜柑の香りが教室にたちこめます。小魚のはねる音がしじまをやぶり、落ち葉の沈む川の底は冬の絵に変わります…」と書き残している。

増築部分
設計は内子町の「からり」と同じ人。


東校舎図書室
完全保存部屋です。鉄筋本棚と壁の竹星は建設当初の写真で再現。
 改修工事は、建築当初も問題となった川に張り出した非常階段やテラスに柵が設けられていたり、「文化財として使い続ける」工夫や改修、増築が為された他、図書室のように松村の図面で書架を復元し、ランプまで似たものを探して付けたという部屋もある。
 川に張り出した、石を貼ったテラスで、赤ちゃんをだっこした若い主婦が、「あっ、柵ができとる」とぽつりと言った。卒業生だろう。川に落ちて怪我をした子供がいたという話は知らないが、河川法の問題が入り組んでこのような形になったそうだ。卒業生や地元の人たちには、「きれいになった。残ってよかった」という意見が多く聞かれ、懐かしそうに温かい眼差しで完成した改修工事を眺めていたのが印象に残った。多目的室で、ばったりと知人に出会った。建築好きの主婦で東京からご主人と車でやってきたという。日土小が昔からよく知られているにしても、驚いた。今回の改修に関わった学者や学生、専門家以外にも全国から見学者が訪れているようだ。
今後、過疎が続く地域の中で、1958年に市職員の建築家松村が明確なビジョンを持って建てた「文化財」の校舎が主役の子供たちとともに幸福な時間を過せることを心から祈る。
 午後には八幡浜市文化会館で、建築史の鈴木博之東大名誉教授の講演と改修に関わった建築家たちと市の教育委員会からパネリストが出て「文化財として使い続ける」というパネルディスカッションが行われたというが、私は聞かなかった。


資料室
壁は当初の意匠を復元したという。

職員室脇の階段

 
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