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第78回 「東京の坊っちゃん」〈その20〉
文/井上 明久

村前の三島神社の絵馬
「恐れ入谷の鬼子母神でげすな、と野だの野郎なら言うだろうな」
 と山嵐は笑って言った。
「どうで有馬の水天宮だ」
 と意味もなくおれが合の手を入れると、
「何だ神田の駿河台ってとこか」
 とこれ又何の意味もなく山嵐が返した。そして、互いの馬鹿馬鹿しさに暫し互いを見遣った。
 それからいつもの如く、一寸でも人の風下に立っているのは癪に触わると言わんばかりに、山嵐は兄貴風を吹かせて宣った。
「会津も江戸もない。この際、問題は赤シャツだ。そして、野だいこだ」
「赤シャツは兎も角、ナニ、野だなんざ、教師の懐ろと一般で、有って無きが如きだ」
 おれが勇んでそう言うと、山嵐は弟を諌めるが如く、やに落ち着いて答えた。
「いやいや、野だを教師の懐ろと一緒にしては不可ん。それに、教師ったって色々ある。あのキツネなんぞは随分と溜め込んでいるという噂だ」
「キツネの奴め、教師に蓄えがあるとはいい加減不埒な野郎だ。何ぞ非道く悪い事をしているに違いない」
「それはそうに違いない。しかし、君は何でも自分を基準にして世間を判断するので不可ない。幾ら自分に蓄えがないからといって……」
「じゃあ山嵐、貴様にはあるのか?」
「いや、おれもない」
「それなら、いいじゃないか。教師の懐ろには金がないのが本当で、あるのは不埒なんだ」
 おれは胸を張って言った。山嵐はおれに負けてなるものかと、もっと胸を張って言い返した。
「そんな事はどうでもいいのだ。おれが言いたいのは、野だ見た様な小者を侮っては不可ないという事だ」
「何でだ? 小者を侮らなくて誰を侮るというのだ?」
「だから貴様は坊っちゃんなんだ。そんな単純でどうする」
 単純と言われて、実を明かせばグッと胸に突き刺すものがあった。親譲りの無鉄砲ばかりでなく、この単純さのせいでも小供の時から損ばかりしている。極く幼い頃は別にしても、或る程度の年齢になってからは世の中すべて白と黒には分けられないと頭では理解できた。しかしいざとなると、どっちつかずの曖昧さがホンの暫しも耐えられずに、白黒を判然と極め付けている。ばかりでなく、それを顔色に出し、にとどまらず、口に出してしまう。結果、招かなくてもいい厄災を好んで呼び寄せることになる。
 確かに、おれが単純だという事は真実かもしれない。いや、真実としよう。けれども、そうである事と、それを山嵐如きから難詰される事とは同一ではない。大いに違う。ここで単純を単純に認めてしまっては男が廃る。
「いいか、君なんぞには到底理解できまいが、単純というのは実に深遠且つ神妙な概念なんだ。そもそも単とは世の真理の基準となる一つのまとまりの事であり、純とは偽りや混じりけのない事を指す。従って単純とは単にして純、すなわち英吉利語にいう……」
「そんな事はどうでもいいのだ。おれが言いたいのは、赤シャツが剣呑なのは当然として、野だを見縊っては不可ないという事だ」
 山嵐の野郎、おれが滔々と論じ立て様としている矢先に、いきなり、そんな事はどうでもいいのだと極め付けやがる。何という礼儀知らずめ。しかし、おれの思いなどどこ吹く風、山嵐は言い続ける。
「赤シャツと野だいこがおれたちの事を何と言っているかはわからんが、校長のキツネは彼奴等の口車にあっさりと乗せられているに違いない。さて、どんな手を打ってくるか。明日の学校がたのしみだ、なあ、オイ」
 
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