過去の連載記事
同じ年の連載記事

2002年07月号 掲載
第15回 千住、草加、西新井〈その二〉
文/井上 明久  画/藪野 健

草加松原
 明治二十七年の二月某日、二十七歳の子規は二十歳の虚子を誘って、東京の郊外へ日帰りの旅に出かける。その日のことを綴った「発句を拾ふの記」は、次のような書き出しで始まる。
 「亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪はんと同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出づ。」
 二人の目的はもっぱら早春の梅見にあった。前記の文に続けて、子規は三句の自作を並べているが、その三句目。
  板塀や 梅の根岸の 幾曲り
 単純で真率な子規の視線が切り取った情景がいとも鮮やかに目の前に浮かんでくる。なるほど当時の根岸は、そんなところであったろうと偲ばれる。どうってことのない在り来たりの板塀の上に梅の木が枝を延ばしている。そしてその枝の先に、白だの紅だのの小さな梅の花が生まれたばかりの若い春の化身のように咲いている。細い露地を曲がるたびにそんな梅の花が板塀の上からひょいと迎えてくれる根岸の春。嗚呼、その頃の根岸の何という風情、何という詩情。
 もっとも、子規庵の庭には梅はなかったらしく、この八十二番地に転居して早々、「根岸にて 梅なき宿と 尋ね来よ」と詠んでいる。梅のないことが家の目印となるくらい、根岸はそこいらじゅうに梅が咲いていたということなのか。また子規にしてみれば、我家に梅がないだけにかえって道のそこここに見かける梅の美しさに目が行ったことだろう。それにしても、百年という歳月の経過は、文字通り、残刻なものである。根岸を尋ねていっても、もう板塀も梅もない。その代わりに、梅なき宿ならぬ、いと眩しく怪し気なる宿が軒を連ねてあるばかりだ。
 ただ、幾曲りの露地だけは残っている。行くたびに少し迷ってしまうような、複雑に入り組んだ道と道の交わりは変わらない。鶯横丁と呼ばれた当時の風景とは大きく異なるかもしれないが、幾曲りの狭い露地の有様には昔の面影がある。この道を元気だった時の子規が歩いたのだ。虚子や、碧梧桐や、左千夫や、節が歩いたのだ。そして、子規を尋ねてあの漱石が歩いたこともあったのだ。忘れ難い子規の一句に、
  その人の あしあと踏めば 風薫る
 というのがあるが、根岸の露地は、根岸の道は、そんな先人たちの風がどこかに薫っているように思えてならない。
 根岸を発った子規と虚子の二人連れが目指したのは、まずは千住だった。金杉通りを歩いて三ノ輪に出、千住に入ったものと思われる。この頃の子規ならば、ホンの朝飯前の距離だったに違いない。
 「千住街道に出づれば荷馬乗車肥車郵便車我れも   と春めかして都に入る人都を出づる人。」
 江戸四宿の一つとして交通の要衝だった千住は、明治半ばにおいても相当な賑わいを見せていた。馬が、車が、人が、さまざまに往き交っている様が見てとれる。そして、「都に入る人都を出づる人」という表現の通り、千住は江戸の、東京の、境なのである。
 そこに架かる千住大橋は、文禄三年(一五九四年)に完成した隅田川最初の橋で、それから六十五年後の万治二年(一六五九年)に両国橋が架けられるまでは単に「大橋」と呼ばれており、それがまたこの橋の正式な呼称でもあるのだ。この大橋が歴史の表舞台に立つのは、寛永元年(一六二四年)に日光東照宮が造営され、翌二年から将軍の日光社参が始められることによってであった。
  大橋の 長さをはかる 燕(つばめ)かな
  燕(つばくろ)や くねりて長き 千住道

 千住の空を、大橋の上を、燕が曲線を描きながらいつまでもいつまでも飛んでいる。低い家並みと広い青空がそんな燕をやさしく迎えている。高いビルと狭苦しい空の現在では烏の黒いくちばしに怯えるしかないのだが。

 
Copyright (C) AKIHISA INOUE. All Rights Reserved.
2000-2008