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2003年03月号 掲載
第23回 日清戦争のこと
文/井上 明久

内子町村前三島神社に奉納された日清戦争の絵馬。
 前回までの「王子紀行」が発表されたのは、明治二十七年八月のことであったが、この明治二十七年から翌二十八年にかけては青年子規にとって波瀾の時期だった。まずは転居があった。と言っても、距離としては大したことはなかった。ちょうど二年前の二月、小説「月の都」の脱稿を機に、それまでいた本郷区駒込追分町から下谷区上根岸町八十八番地に移った。その地は日本新聞社の社主・陸羯南の邸宅の西隣りであった。そしてこの年の二月一日、今度はその陸宅の東隣りになる上根岸町八十二番地に越したのである。この転居が重要な意味を持つのは、無論、歴史という時間作用から見た結果論でしかないのは自明のことだが、明治十六年六月に上京以来、幾度となく東京の地を移り住んだ子規にとって、結局、この家が終(つい)のすみかとなった。子規庵と名付けられた家は、極めて有難いことにきちんと現存し、訪れる者を今なおあたたかく迎えてくれることは、余りにも移ろいやすい東京の中で一つの奇蹟のようにも思える。
  その引越から程ない二月十一日、紀元節のこの日を期して「小日本」が創刊され、その編集責任者に子規が抜擢される。日本新聞社が発行していた「日本」はそれまでに度々、発行停止処分を受けており、社主の陸羯南は当局のほこさきをかわす目的も兼ねて、政治論説を扱わない家庭趣味新聞としての「小日本」発行を企てたのである。これを受けて、子規は大いに張り切った。その余りにもあからさまな露(あらわ)れは、自身の小説「月の都」を第一号から連載したことにも容易に見てとれる。これを編集長の特権ととるか濫用ととるかは人それぞれだろうが、少なくとも、「月の都」という作品に対する子規の並々ならぬ深い愛着を読みとることは可能だろう。そして、二年前に大いなる期待を抱いて託したにもかかわらず、頼みの綱の露伴から芳しい評価を得られなかった不憫な我が子に、明るい陽の光を浴びさせてあげたかったのだ。無論その裏には、自信家で負けずぎらいの子規のことだ、俺の作品が悪いわけはないのだぐらいの思いはきっとあったに違いない。ともかく、子規の編集責任のもとに、こうして一つの新聞がここに船出をしたのである。ところが、それからわずか五ヵ月後の七月十五日、子規が精根込めて取り組んだ「小日本」は廃刊となり、再び元の「日本」の一記者に戻ることになってしまう。そして八月一日、日本は清国に対して宣戦を布告。ここに日清戦争の火蓋が切って落とされる。


郡中港の灯台
 文学に己れの道を定める以前の子規は、相当なる政治少年であり、政治青年だった。世の中が大きく革(あらた)まってまだ十年、二十年という歳月の中では、有為ある若者にとって政治に真摯な関心を持つことはむしろ当然だったと言えよう。日清戦争が起こり、子規の胸はかつての自分を思い出してざわざわと騒いだに違いない。たとえ己れの肉体はもはや銃を持つことは適わなくとも・・。
  十一月三日の天長節、子規は川崎大師から池上本門寺へと参詣し、それを四日と五日の「日本」に「間遊半日」と題して発表した。その中の一節に、こんな車内風景が描き出されている。「田舎の天長節と世間の戦争の噂とを知らんとて新橋より汽車に打ち乗りてあたり見廻せば商人らしきもの会社員らしきもののみなりき。小僧めきたる少年の満室を相手に喃々としやべり居るは定めて日清事件ならんと聴けば、左に非ず切符なくして汽車に乗りし狂女の事なり。此話頭一転すれば傍の人狂気して大道に剣を抜きたる兵士の談に及べり。此兵士は戦争の恐ろしさに狂へるなりと。果然果然先づ一歩を日清戦争に進めたり。是より甲一語乙一語、室内は終に舌頭の砲烟弾雨を以て充たされぬ。」
  この瞬間の子規は、俳人であるよりも多く新聞記者であった。

 
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