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2001年09月号 掲載
第6回 本郷追分と『月の都』〈その二〉
文/井上 明久  画/藪野 健


 脱稿したばかりの小説『月の都』の原稿を抱え、子規は本郷区駒込追分町三十番地奥井方の離れの一軒家を出て、下谷区谷中天王寺町二十一番地(通称、銀杏横(ぎんなん)町)の幸田露伴宅を訪ねる。明治二十五年二月、子規、露伴共に二十五歳の時のことである。  この日、いったい子規はどの道を通って歩いていったのだろう。現在の文京区向丘から台東区谷中七丁目まで、歩いて優に三十分はかかる距離で、また谷中が寺町であるために道は細かく区分されていて真っ直ぐに突き抜ける道がないので、通る道によっては案外と多くの時間がかかる。  下宿を出た子規は、恐らく根津神社の脇の権現坂をくだって大通り(不忍(しのばす)通り)まででたのだろう。この権現坂は、子規が何度も登り下りしたであろう頃から二十年近く経った明治四十三年、森鴎外が『青年』の中でSの字をぞんざいに書いたように屈曲していると表現したことからS坂とも呼ばれるようになった坂である。(ここで、拙作『佐保神の別れ」からの引用をご寛恕いただきたい。「S坂とも呼ばれている権現坂の下に立って坂上を見上げると、ゆるやかに左手に曲がる坂の頂上の右手に何とも言えず美しい二階建ての木造洋館が建っている。根津教会と同じ色に塗られているが、こちらの方が少しグレーに近い。この家にはかつて内田百 が下宿いたことがある。そして、この洋館の少し手前の向かいには、まるで江戸川乱歩の小説にでもでてきそうないささか面妖な、けれども人をひきつけずにはおかない魅力を湛えた和洋折衷の建物が建っている。坂の下から見上げるこの光景は、およそ現在の東京とは思えない、時間を超えた、夢のような味わいがあった。」)  さて、大通りまでくだった子規はそれからどの道を通って露伴宅を目指したのだろう。途中どこかで、現在へびみちと呼ばれているかつての藍染(あいぞめ)川を渡り、その後、三浦坂(別名、くじら坂)なり、あかぢ坂なり、三崎坂なり、螢坂なり、いずれにしてもかなりの坂道をウンウンと登り、そして寺と寺の間の道を曲がり曲がりして行ったのに違いない。無論、この頃の子規はまだこうした道を平気で歩けるだけの体をしていた。


露伴旧居跡
 この時からほぼ一年前の明治二十四年一月、幸田露伴は谷中天王寺町に居を構え、二年後の明治二十六年一月に京橋区丸屋町に移るまでこの地に暮らす。その間、ここで『いさなとり』『五重塔』などの傑作を書くことになる。当時の情景は塩谷賛によれば次の如くであった。「五重の塔を右に見て墓地に入り、途中で左に折れると大きな銀杏が一本空を摩している。それについて右へ折れる横町は銀杏(ぎんなん)横町とも呼ばれたが、花や線香を商う三原屋のまえを通り過ぎた一丁ほど奧のつきあたりの家である。古い家だったのでのちにこわされた。東と南は墓地に接し、寺の読経も聞えた。五重の塔は東南の方角に聳えて見えた。」


朝倉彫塑館 正面

朝倉彫塑館 裏口
 この場所は日暮里駅前の御殿坂を一本裏に入って一、二分のところで、現在の住所では台東区谷中七の十九あたりになる。道の角に「幸田露伴旧居の跡」の表示があり、傍らに一本の珊瑚樹が葉を繁らせているが、案内によればこれは露伴が住んでいた頃のものだという。この敷地にはグリーンビル谷中というマンションが建っているが、それを少し先へ行くと突き当たりに、何とも言えず物寂びて奧床しい、格子戸造りの門が見える。彫刻家・朝倉文夫の自宅兼アトリエ跡を記念館にした朝倉彫塑館の裏口である。このすぐ近くにはかつて北原白秋も住んでいたが、そうした文化的名残りがいまだどこかに微かながら残っているようにも感じられるのは、墓地を隣にした閑静さのせいだろうか。あるいは、二階建ての木造家屋がまだまだかなり残っていて、そのせいで空が大きく広く見えるからなのだろうか。いずれにしても現在の東京では得がたい空間である。

 
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