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第58回 夢一夜
文/井上 明久

- 飯田橋界隈 -
 子規のこの文章については、本稿「東京の子規」で以前にも触れた記憶があるのだが、強く心惹かれるものがあるのでもう一度引用してみたい。それは明治三十二年一月十日刊の『ホトトギス』第二巻第四号に発表された文章で、「夢」と題されている。
 「○先日徹夜をして翌晩は近頃にない安眠をした。その夜の夢にある岡の上に枝垂桜が一面に咲いていてその枝が動くと赤い花びらが粉雪のように細かくなって降って来る。その下で美人と袖ふれ合うた夢を見た。病人の柄にもない艶な夢を見たものだ。」
 これで全文である。百二十字に満たないごくごく短い文章である。この文章には「子規」の署名がある。『ホトトギス』の同じ号には、「子規子」と署名した「雲の日記」という文章も掲載されている。これは明治三十一年の十二月十五日から三十一日までの日記で、タイトル通り天候についての記述を中心にした、ごく簡明なその日その日の覚書といった体のものである。
 例えば、十二月十六日は「快晴、雲なし。」だし、あるいは十九日なら「ありなし雲、檐(のき)の端にあり。」だし、また二十一日は「真綿の如き雲あり。虚子来る。」という風である。
 二十六日はこうである。
 「ちぎれ雲、枯尾花の下にあり。鴨、椽側の日向(ひなた)にあり。俳句新派の傾向を草す。夜を徹す。」
 それを受けて二十七日。
 「午前二時頃より雨だれの音聞ゆ。朝九時脱稿、十時寝に就く。午後二時覚む。七時頃より再び眠る。からだ労(つか)れて心地よし。少量の麻酔剤を服したるが如し。」
 つまり、「夢」の書き出しにある「先日徹夜をして翌晩は近頃にない安眠をした。」というのは、この二十六日から二十七日にかけてのことを指していると思われる。従って、「病人の柄にもなく艶な夢を見た」のは、二十七日の夜ということになろう。
 常時、肉体の痛みに苦しめられていた子規にとって、恐らく、「からだ労れて心地よし。少量の麻酔剤を服したるが如し。」といったような快適な眠りは滅多にあることではなく、それだけにまた、その時に「艶な夢」が見られたことに深い印象を覚えたのではないだろうか。
 それにしても、「岡の上に枝垂桜が一面に咲いていてその枝が動くと赤い花びらが粉雪のように細かくなって降ってくる。その下で美人と袖ふれ合うた夢」とは、何とも美しいではないか。そして無論、何ともエロティックではないか。
 ところで、この頃、漱石は熊本で第五高等学校の教師をしていたが、明治三十一年の十一月と十二月に『ホトトギス』に「不言之言」という評論を寄稿し、翌三十二年の四月には「英国の文士と新聞雑誌」を、八月には「小説『エイルヰン』の批評」を、それぞれ『ホトトギス』に発表している。
 漱石にとって『ホトトギス』という雑誌は単に寄稿誌としてばかりでなく、親友の子規が編集する精神的支柱のような存在として強い絆を感じていただろう。東京から遠く離れた地にあって、毎号今か今かと待ちわびていたにちがいない。とりわけこの頃は漱石の生涯にとって最も作句に邁進していた時期で、五高生を中心とした俳句結社「」が興り、漱石はその指導的役割を担ってもいたからである。
 だから当然、漱石は『ホトトギス』に載った子規のこの「夢」なる一文を読んだ。ごくごく短い文章だから、二、三回繰り返し読んだかもしれない。このロマンティシズム、このエロティシズム。あの子規が……。そう、漱石の心に深く刻印された(と、僕は勝手に思いこんでいる)。
 この時からおよそ十年後、その間(かん)に漱石には二年半の英国留学があり、子規には永遠の眠りがあったが、明治四十一年、漱石は『夢十夜』なる異色の短篇小説を発表する。そしてその内の「第一夜」には、状況も設定も舞台もすべて異なるが、遠く遠く子規の「夢」が木霊(こだま)しているのではないか。そんな気がしてならない。  
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