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2005年07月号 掲載
第51回 閑話放題〈その二〉
文/井上 明久

- 石手寺 -
 有りもしない「閑話放題」なる語を標題に掲げ、それも〈その二〉などと屋上屋を架すような厚顔無恥をさらす無作法を御許しいただき、今度の松山行についてもう少しだけ書き進めたい。
 前回に述べたように、松山行の第一の目的は道後にある子規記念博物館で開催されていた館蔵資料展「漱石のいた日々」を見ることにあった。
 出展作品は全五十五点。内容は三部に分かれていて、第一部が「漱石、松山に来る 愚陀仏庵と松風会」、第二部が「教師漱石と教え子たち」、第三部が「漱石のあしあと 松山の友人たち」となっている。そして、作品の形態としては、雑誌、半紙、軸幅、短冊、巻紙、和綴本、原稿用紙、はがき、洋紙、折本、刊本など、多様である。
 愛媛県尋常中学校(松山中学校・現在の松山東高校)の英語教師として、二十八歳の漱石が四国松山の地を踏んだのは明治二十八年四月九日のことだが、それからちょうど一年後の明治二十九年四月十日、二十九歳の漱石は九州熊本に向けて松山を去っている。松山におけるこの一年という滞在期間が、漱石にとって長かったか短かかったかは推察の域を出ないが、その間(かん)に漱石にもたらされたものが大きかったか小さかったかについてははっきりと答が出せる。大きかった、それも極めて大きかった。
 主として俳句を通して得た友人知人、それが松山での漱石にもたらしたもので、その交友関係は漱石が松山を離れた後も生涯を通じて長く継続する体(てい)のものだった。そして、その中心に存在していたのが、無論、かの子規だった。
 愚陀仏庵での五十余日の子規との共同生活の中で、漱石は子規を慕って訪ねてくる多くの俳人を知ることになる。そしてそこから、漱石は子規の友人たちと親しく交わるようになっていき、子規が松山を去った後も、また子規がこの世を去った後も、子規が遺したものを共有しつつ、漱石と彼らの交友は続いていくのだ。
 第一部のサブタイトルに「愚陀仏庵と松風会」とあるが、松風会とは明治二十七年三月、松山高等小学校の校長・中村愛松、教頭・野間叟柳をはじめとする同校の教職員を中心に始まった、日本最初の新派俳句の団体である。
 この松風会の連中が子規に教えを請いに連日のように愚陀仏庵を訪れ、ああだこうだと口角泡を飛ばすのを、はじめは勉強の邪魔だと迷惑顔だった漱石も、数には勝てずに仕方なく仲間に加わる内に、生来の俳句好きに火が着き、気がつけば誰にも負けぬくらいの熱中ぶりを示す有様だった。そして、俳句とこの時に知り合った友人たちとの交流は、漱石にとって後々まで大事なものとなった。
 出展作品には、中村愛松、野間叟柳、伴狸伴、柳原極堂、大島梅屋、村上霽月など、子規を通して漱石が出会った人たちの名が見られる。また中学校の教え子だった松根東洋城や桜井忠温や、後に門下生となる安倍能成のものも見られる。とりわけ、桜井忠温描くところの「坊っちゃん絵はがき原画」と「坊っちゃん画帖」は、その飄味あふれる画風が懐かしく、また興味深い。
 ところで、漱石から森円月に宛てた書簡が、明治四十年のものと大正元年のもの、二通出展されていた。森円月の名を見て、昔何かで読んだエピソードを思い出した。愚陀仏庵を訪れた森円月は、子規に揮毫を所望した。それに気易く応じた子規は、傍らにあった漱石の書を差し出して、ついでにこれも持っていっていいぞと言ったが、円月は体よくそれをことわった。後になって円月は、あの時もらっておけばよかったと苦笑したという。
 ま、確かに明治二十八年の当時、子規はすでに盛名ある俳人だったが、漱石は中学校の名も無き一教師。円月の判断も無理からぬところ。けれどもこの二点の書簡に見る通り、漱石と円月はその後もずっと交流はあった。
(この項、了)

 
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