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第69回 「東京の坊っちゃん」〈その11〉
文/井上 明久

- 久万美術館で展観された吉田蔵澤の墨竹画屏風 -
漱石は蔵澤の墨竹をことのほか愛した。
 学校というのは不思議な所で、何が不思議って、大別して2種類の人間がいるってことだ。大人である教師連と、大人になっていない生徒達だ。これが一般の会社や職場と大いに違う。
 街鉄での経験から言うまでもなく、一般の会社や職場を構成しているのは大人ばかりだ。年齢の差や役職の違いはあっても、互いに大人であることには変わりはない。そこで、多少の遠慮や心遣いというものも出てくるわけだ。
 もっとも、街鉄のあの帝大出の技師ばっかりは、外見は大人だが中身は根っからの餓鬼で、年が年中、小汚ない上司面をぶらさげていた。相手が大人ならおれも大人でいるが、向こうが餓鬼ならこっちも大人でいる必要はないってんで、つい殴ってしまった。確かに大人げなかったが、職場を代償にしてやった行為だ、大人の責任は十分果たしたとおれは今でも思っている。
 街鉄での事はそれとして、学校という場では、大人である教師が大人になっていない生徒に対して一方的に権力を持っている。教師は高い教壇の上から常に生徒に対して威圧を持って接している。これが実は危険なのである。剣呑なのである。
 教師という職業に就いていると、知らず識らずの内に、自分が偉い人間だと思い込んでしまう。おれなぞは生まれつき余り出来の良くない方だから、これでも自分の分というものは常々弁えているつもりだが、それでも気がつくと則を越えていることがある。 おれなぞと違って小供の頃から頭がいい頭がいいと言われて大きくなった人間が教師になると、大抵は始末が悪い。本当は偉くもないのに空威張りしている鼻持ちならない連中が出来上がる。こういうのを見るとおれは虫酸が走り、ついつい殴りたくなってしまう。どうも単純で不可ない。しかし、おれがこの単純さを克服する事が出来る日は来るのだろうか。残念ながらおれは一生こんな風である様な気がしてならない。
 ただ、幾ら単純だと言われても、悪いものは悪い、駄目なものは駄目、偉くないものは偉くないと言うことはおれのおれたる所以なので、こればっかりは止める気はない。だから当然ながら、良いものは良い、立派なものは立派、偉いものは偉いと認めるのには些かも吝かではない。
 教師という職業を持つ人間の中には、例えば小川さんの様な、斜めから見ても裏から見ても正真正銘、尊敬に値する人物はいる。しかし、こうした真の傑物が実際は余り世に容れられなくて、尊大ぶって表に出たがる輩が評判を得るというのがどうにも気に入らない。癪にさわる。
 良い悪い、偉い偉くないはひとまず措くとして、教師という人種の中には欠態な人間が少なくない事は確かだ。社会の縮図だと言えばそれまでだが、先刻言った通り、一般の社会と異なって教壇の上に立って常に目の前の人間に対して小なりと雖も権力を発揮出来るので、その欠態さにも拍車がかかるという訳である。もっとも百年も経てば、教師が生徒に遠慮をしたり、教師が生徒から殴られるなんて事が起こるかも知れない。だって、100年前には丁髷がザンギリ頭になったり、下駄が靴になったり誰が思った事か。社会の変化というものは何が起こるか判ったものではない。が、おれ見た様な者は未来の事を思い煩うよりも今日只今をしっかりと生きるしかないのだが。
 どうも今日のおれはおれらしくもなく懐疑派だ。今流行りの朦朧体に少し毒されているのかも知れん。憂鬱というのは文明病の一種らしいが、こんなおれでも文明病に罹かっているのか。もしそうだとしたら、それは清の死以来だ。清の死は深い所でおれを変えた。清という女の存在の大きさ、そして清が懐えていた真実の大きさ、それが清の死後、時折りおれをこんな風にするのだ。
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