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第66回 「東京の坊っちゃん」〈その8〉
文/井上 明久

- 門前白川 -
小川さんのお宅を辞去したところで、
 「何か食っていかないか」
 という山嵐の提言を受けて、おれと山嵐は神楽坂の田原屋へ入った。互いにポオクカツレツと麦酒を頼んだ。山嵐ときたら、出てきたポオクカツレツの食いっ振りの早いの早くないの。健啖家などと評したら余りに上品で、あれは単なる物っ食いってとこだ。けれどおれも江戸っ子、あんな会津っぽなんぞに負けてはいられない。ガッツ、ガッツと食い込んだ。お陰で、何を食ったのかよく味わいもしなかった。山嵐のせいで、飛んだ損をした。
 二杯目の麦酒が来たところで、互いにやっと話をする気分になった。先に口を開いたのは山嵐だ。
 「ところで、先刻の話だが」
 「先刻の話とは……」
 「共立学校の件だよ」
 「ああ、あのことか」
 「君は確か、物理学校の出だろ、小川町の。共立学校はその目と鼻の先の淡路町だ。小川さんも共立学校のことは誉めてたじゃないか」
 今日お伺いしましたのはと、山嵐は少しばかり厳粛な面持ちをして、小川さんに新しい勤め先の報告をした。成程、共立学校に、と言った後、小川さんは語を継いだ。
 「それは良い所に勤められた。校長の高橋是清という人が、なかなかの大人物と聞いている。実は、私の古い友人に正岡というのがいて、その正岡が共立学校の出だった。近年、俳句や短歌で大分名を高めているのだが、君達は知らんかね」
 おれと山嵐は顔を見合わせてから、情無さそうに、ハァー、とだけ答えた。何せ、おれも山嵐も数学の教師だから、俳句とか大工には頓と用はないし、短歌とか檀家にも丸で縁はなかった。小川さんの顔が少し残念そうに変化したのを見たからだろう、山嵐は勢い込んで尋ねた。
 「それで、その正岡という人は、今どうしていらっしゃるんで」
 「死にましたよ。随分若くして」
 そんな話の後で、おれが二度目の勤務先である街鉄の技手を辞めた事を知った山嵐は、おれに共立学校の口を勧めたのである。
 「しかし君、そんなに安請合いをしていいのかい」
 「安請合いなんかじゃないさ」
 と言って、山嵐は麦酒をグイと呷る。何だか判らないが負けちゃいられないと思うので、おれもグイと呷る。
 「この半年で、学校でのおれの信用は大したもんなんだぞ。君なんぞはサラサラ知らんだろ」
 「無論、知らんさ」
 「だから、君は愚なんだ」
 「おれがいつ愚なんだ」
 「だって、街鉄をもう失職ったじゃないか」
 「失職ったんじゃない、おれから辞めたんだ。上役の帝大出の技師があんまり没暁漢だから、おれが進んで天誅を加えてやったんだ」
 「あの赤シャツ見た様にか」
 「そうさ、あの赤シャツ見た様によ」
 「そうか、それなら愚は撤回する。撤回するから、どうだ来ないか」
 半年振りで会った山嵐は、相変らず鼻息が荒い。そして、自信満々だ。まだ勤め出して半年足らずなのに、丸で自分が校長であるかの如き言辞を弄する。二度の苦い経験をしたおれは、厭でもちょっとは慎重になる。
 「学校は、如何だ」
 「北極学校と言われている」
 「…………」
 「北極に行けば、これ以上北はないだろ。つまり、これ以上きたない学校はないって事だ。大風が吹くと、神田辺の材木屋という材木屋が駆けつけて来て、門前に市を成すくらいだ」
「……給料は」
「無論、安い」
 
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