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2004年08月号 掲載
第40回 二つの雅号
文/井上 明久

田端大龍寺 子規の墓
 子規と漱石の交際のきっかけは互いが寄席通であったことだが、その交友を深めたのは互いの著作に対する評にそれぞれ感嘆と敬意を抱いたことにある。互いの著作とは、子規の「七草集(ななくさしゅう)」と漱石の「木屑録(ぼくせつろく)」。
 明治二十一年夏の向島滞在中に書き始め、翌二十二年五月に完成した「七草集」は、漢詩、漢文、和歌、発句、謡曲、小説など多ジャンルにわたる文章を集めたもので、それを読んだ漱石は一読三嘆し、漢文による評に加えて九首の七言絶句を添えた。その時、夏目金之助は署名に「漱石」の号を初めて用いた。
 明治二十三年に書かれ、『筆まかせ』第二編に収められた「雅号」という文章に、「余は雅号をつける事を好みて自ら沢山撰みし中に『走兎』『風簾』『漱石』などのあるだけ記臆しゐれど其他は忘れたり 走兎とは余卯の歳の生れ故 それにちなみてつけ 漱石とは高慢なるよりつけたるものか」とあり、上欄の余白に自注として、「漱石は今友人の仮名と変セリ」と子規は書き加えている。
 自己の性格を高慢と認識した子規は、それ故に「漱石」という号をつけたという。「漱石」とは、『世説新語』(南朝宋の劉義慶の著)を出典とする「漱石枕流」のことで、本来は「石に枕(まくら)し、流れに漱(くちすす)がん」と言うべきところを、誤って「石に漱ぎ、流れに枕せん」と言ってしまい、それを指摘されると、「いやいや、流れに枕するのは耳を洗うためで、石に漱ぐのは歯をみがくためだ」と、男は強情に言い張ったという。そこから、負け惜しみをしてあれこれこじつけをするような、偏屈な態度をとることを「漱石枕流」といった。夏目金之助がこの号を選んだのも、頑固で偏屈で負けず嫌いの自分の性格にピッタリだと思ったからである。
 子規の「七草集」に対する評に初めて漱石の号を用いた日、つまり夏目金之助が夏目漱石となった日は、明治二十二年五月二十五日だが、それでは正岡常規が正岡子規となった日はというと、それよりわずか半月前の五月九日のことだった。この日の夜、子規は突然喀血する。最初の喀血は前年の七月二十九日、暴風雨の中の鎌倉での路上においてであったが、今回は本郷真砂町(まさごちょう)の常盤会寄宿舎の部屋で、一度に五勺(九十ミリリットル)ほどの喀血がその後一週間も続いた。この五月二十九日の喀血を機に、鳴いて血を吐くほととぎすの言い伝えから、正岡常規は「子規」の号を得る。つまり、明治二十二年五月、後の文学界に大きな足跡を残し、今日(こんにち)ますますその影響力を深めている子規と漱石が、それぞれの雅号を相次いで定めたわけである。
 漱石は子規の「七草集」に創作意欲を刺激されて、同年の八月に行なった房総地方の旅を漢文と漢詩による「木屑録」としてまとめた。これを読んだ子規は、漱石が英語に長じているばかりでなく、漢詩文においても極めて秀れた能力の持主であることに驚く。そしてその評に、君のような者は千万人中に一人だと激賞し、東京に来てからまだ一人の友も得なかったが、ここに初めて友を得ることができたと喜びを語っている。子規がこの評を書いたのは十月十三日のことだが、この年の一月に寄席の話などから口をきくようになった二人が、「七草集」「木屑録」という互いの著作を通して、表現力及び鑑賞力において十分に認め合う仲に十ヵ月かけてなったというわけだ。そこから生まれた深い信頼を揺るがすものは、もう二人の間になかった。
 ところで、子規の喀血があと何年か遅くて、その間に子規が、いや正岡常規が漱石という号を選んでいたら、つまり正岡子規が正岡漱石だったら、いったいどうなっていたろう。そうなると漱石は漱石になれないのだから、いや夏目金之助は夏目漱石になれなくて、夏目何と号していただろう。まことに下らない疑問だが、そうなる可能性がまったくなかったわけではないのだ。正岡子規が正岡漱石で夏目漱石が夏目なにがしだったら、子規も漱石も今とは異なる存在になっていたのではないか……。いや、閑人の妄想か。

 
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