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2005年02月号 掲載
第46回 三島への旅〈その二〉
文/井上 明久

道後温泉
 子規が三島の町を訪れたのは明治二十五年十月十四日だが、それは少し長めの旅の途中のことだった。十月三日に東京を発った子規は、十日ほど大磯に滞在した後、国府津、箱根、湯本、三島、修善寺、韮山、仁田、熱海などを廻り、十七日に帰京するまでおよそ二週間の旅をしている。
 その旅の記録は、「旅の旅の旅」と題されて、十月三十一日、十一月一日、同月三日、同月六日の四回、『日本』に連載された。
 旅先の大磯から、また別の旅に出たので、「旅の旅の旅」と題したらしいが、
  旅の旅その又旅の秋の風
 なる一句が、文中の最初の句として置かれている。
 二十五歳の無名の青年、本人がどこまで意識的だったかはわからないが、いや、あの豪気な子規のことだ、相当に意識していたのではないかと推察されるが、この句は芭蕉の向こうを張っているように思われる。それは、句の前にある文章からも強く伺うことができる気がする。
 「われ浮世の旅の首途(かどで)してよりここに二十五年、南海の故郷をさまよい出でしよりここに十年、東都の仮住居を見すてしよりここに十日、身は今旅の旅にありながら風雲の念いなお已(や)みがたく頻(しきり)りに道祖神にさわがされて霖雨の晴間をうかがい草鞋(わらじ)よ脚半(きゃはん)よと身をつくろいつつ一個の袱包(ふくき)を浮世のかたみに担うて飄然と大磯の客舎を出でたる後は天下は股の下杖一本が命なり。」
 実にリズミカルで、心地良い文章ではないか。とりわけ、「ここに二十五年」、「ここに十年」、「ここに十日」の重ねぶりが調子いい。また、簡潔な中に子規の念(おも)いがしっかりと伝わってくる表現の妙がある。そして、「天下は股の下杖一本が命なり」の断定は、いかにも子規らしく凛としている。
 ところで、話はここで少し理屈っぽくなるがお許しいただきたい。前述したように、子規が『日本』に発表した文章は「旅の旅の旅」と題された。何故、「旅」は三つなのか。旅先の大磯から次の旅に出たのなら、「旅の旅」でいいではないか。何故、もう一つ「旅」が重ねられているのか。
 先ほど引用した文章に、「身は今旅の旅にありながら風雲の念いなお己みがたく」とある。つまり、子規は大磯に滞在している時点で、自分は今「旅の旅」にあるんだと言っているのだ。従って、そこから次の旅に出るのだから、それは当然「旅の旅の旅」ということになるわけである。
 大磯への旅がすでに「旅の旅」ならば、では一番目の旅は何だ、ということになる。子規の言葉を借りれば「東都の仮住居」、すなわち故郷を離れてからのこの十年の東京の暮らしが、子規にとって「旅」であったことは間違いない。まだ歩行に支障がなかった頃の子規は、夏休みなど機会があるごとに松山に帰っている。十六歳まで過ごした故郷の、懐かしき人々、懐かしき風景の確かさと比べた時、東京での生活はその日その日の「仮住居」であり、今、自分は東京への長い旅をしてるのだと思っていたのではないだろうか。
 けれども実は、単に東京での十年間を「旅」ととらえるばかりでなく、それよりももっと根本的に、子規は生きていくこと自体を「旅」と理解していたのだ。再び子規の言葉を借りれば、「われ浮世の旅の首途(かどで)してよりここに二十五年」という表現にそれが表されている。二十五年前にオギャーと生まれた時から、浮世という旅を自分は歩き始めたのだ。子規はそう思っていたに違いない。
 生きること、すなわち人生を「旅」そのものと見た西行や芭蕉の系譜に連なる、いや、その向こうを張る子規の漂泊への念いには、先人たちに優るとも劣らぬ真摯で苛烈なものが感じられる。それが、「旅の旅」や「旅の旅の旅」という言い方によく出ている。ただ、運命の残酷さは子規に西行や芭蕉のような「老いの旅」を許さなかったことだ。
(この項、続く)

 
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