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2001年12月号 掲載
第9回 神田猿楽町の下宿〈その一〉
文/井上 明久

西神田カトリック教会
千代田区西神田1-1
昭和3年完成。コンクリート造。設計 宮内初太郎
 明治十六年六月十四日、満十六歳の子規は四国・松山から上京する。そして翌年の九月、東京大学予備門予科に入学する。その折のことは、明治二十四年、新聞「日本」に『墨汁一滴』と題して連載した日録風の文章の中で、こう回顧されている。
 「余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であったと思う。この時余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力は無い、殊に英語の力が足りないのであったが、場馴れのために試験受けようじゃないかという同級生がたくさんあったのでもとより落第のつもりで戯れに受けてみた。用意などは露もしない。」
 そんな軽い気持で臨んだ試験だったが、他の科目はともかく、案の上、英語には大いに摺(てこず)った。隣に座った級友が難しい単語の訳をそっと教えてくれたので多少はなんとかなったのだが、中で一つ、「ホーカン」と教えられたものがあった。けれど、どう考えてみても「幇間(ほうかん)」では意味が通じない。でも他に思いつきようはないのだから「幇間」と訳しておいたが、終わってから考えてみれば、あれは「法官」であったに違いない、と子規は書いている。裁判官をたいこもちと間違えるあたりは、『吾輩は猫である』にでも出てきそうなエピソードである。
 そんな出来だったので最初(はな)から期待はなかったのだが、是非行こうという友に連れられて発表を見に行くと、意外や意外、子規は合格していた。そして、かえって子規に英語を教えてくれた隣の級友は落ちていた。試験を受けた同級生は五、六人いたが、及第したのは子規ともう一人の二人だけだった。
 大学予備門に入学した子規は、牛込の藤野家から、神田猿楽町五番地の下宿屋板垣善五郎方に転居する。猿楽町は当時予備門があった一ツ橋外とは目と鼻の先に位置しており、多くの学生たちの下宿場所であった。因みに、同時期、漱石もまたこの地の下宿人だった。『満韓ところどころ』にこう書かれている。
「其頃は大勢で猿楽町の末富屋という下宿に陣取っていた。此同勢は前後を通じると約十人近くであったが、みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかの如くに心得ていた。」
 東京に家を持たない子規が下宿をするのは当然のことだが、それに反して漱石の場合は早稲田喜久井町にある生家から通って通えぬことはなかった。けれども、生後間もなく出された養家先からその身は生家に戻されたものの、未だ夏目金之助にはなれず養家の姓である塩原金之助を名乗っていた当時の漱石にしてみれば、二つの家の狭間で苦しむことから一刻も早く逃れたかったに違いない。若き漱石にとって、恐らく、中村是公をはじめとする同年配の友人たちとの交友に、生まれて初めての自由な解放感と生きる歓びを味わったことだろう。
 この頃、子規と漱石はまだ親しいつきあいは始まっていないのだが、今と違って学生の数が極端に少なかった当時、互いに名前と顔ぐらいは知っていたかと思われる。子規は漱石のことを江戸っ子風を吹かせたあばた面めと思っていたかもしれず、漱石は子規のことをエラそうな顔をした田舎者めと思っていたかもしれない。あるいはまた、互いが互いを侮るべからずと漠然とながら私かに感じ入っていたかもしれない。そんな二人が猿楽町の道で、坂で、路地で、どんなふうにして擦れ違ったりしたのであろうか。


雨の女坂

漱石が明治11年に通った錦華学校の跡
(当時神田区猿楽町二番地・現千代田区神保町一丁目三十番)
 その猿楽町には幼い漱石が通った錦華学校(現在のお茶の水小学校)がある校門の横の金網の前に石碑があり、「吾輩は猫である 名前はまだ無い 明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」と刻まれている。子規や漱石の青春を偲ぶ縁を今の猿楽町に見つけるのは難しいが、それでも、女坂や男坂がある辺りの風情や、カトリック神田教会の建物などが町歩きの楽しさを与えてくれる。

 
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