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第73回 「東京の坊っちゃん」〈その15〉
文/井上 明久

- 坂の上の雲ミュージアム -
おれが清の事で愚太愚太と思い煩らっていた時、学校では一大事が起きていた。
 と言っても、おれにとっては何が一大事か皆目判らなかったが、兎に角山嵐の奴が一大事だ、一大事だと騒ぐものだから、ひょっとしたら何か一大事なのかも知らんと思ったまでだ。
 山嵐はおれよりも僅か半年余り先に来ただけだというのに、如何にも我こそが主だと言わんばかりのデカイ顔をして学校中を歩き廻っている。そして実際、校内の事は何でも良く知っている。もっとも、どれもこれも天下の趨勢には何ら影響を与えぬ、誠に下らない事ばかりであるが。
 その山嵐が言うには、こういう事だ。
 「ダルマの時は随分と増しだったが、キツネになってからはどうも不可ん。実に不可ん。何とも蚊とも怪しからん」
 ダルマというのは本校の創立者で初代校長の高橋是清の事で、近年、政界での活動が頓に忙しさを増した為、学校から身を引いた。その後を襲ったのが現校長のキツネである。おれが9月の新学期に来た時は既にキツネに変わっていたので、それ以前の事は知らないのだが。
 「それでどう不可んのだ、キツネは」
 「どうもこうも不可ん。話にならん」
 「どう話にならんのだ」
 「どうもこうも話にならん。全く不可ん」
 「不可んと話にならんばかりじゃ判らんじゃないか。なあ、やまあ……、いや君」
 「山嵐でいい。君がおれの事を山嵐と言っていたのはあの頃から知っている。どうせおれは叡山の悪僧面をした山嵐だ。心置きなく山嵐と呼んでくれ。その代り、おれも君の事を坊っちゃんと呼ばせてもらうぜ」
 無論、おれも四国の中学で自分が坊っちゃんと仇名されていた事は知っている。恐らく最初に言い出したのは、赤シャツか野だいこあたりだろう。人の失敗を陰でニヤニヤ笑いながら、あの男は単純で融通の効かぬ坊っちゃんなんだから、とでも言い合ってヤニ下がったに違いない。
 今思い出しても、赤シャツと野だいこには腹が立つ。体がカッと熱くなる。怒りがムラムラと湧いて来る。もし何処かで出会ったら、もう一度、玉子をぶつけて、それから拳骨の2つ3つ、いやおまけに5つ6つ、お見舞いしてやりたいものだ。
 山嵐がおれの事を坊っちゃんと言うのは、まあこれまでの行き掛かり上、止むを得んだろう。渋々だが認めてやる。
 しかし、正直言って、おれはこの坊っちゃんという仇名が大の嫌いだ。いや、正確に言えば、清以外の口から坊ちゃんと言われるのが大の嫌いなのだ。
 おれにとっては、清の口から出る坊っちゃんだけが、本当の坊っちゃんなのだ。それ以外は、皮肉か、揶揄か、侮蔑か、悪口か、兎に角何か人を貶めるものがそこには含まれている。清の言う坊ちゃんだけが、純粋で何の混じり気もない坊っちゃんだ。
 愚かな事に、小供の頃はそれが判らなかった。清の言う坊ちゃんがただくすぐったく、時には五月蠅いと感じて邪険に振り払った事もある。けれども無論、心の底では嬉しく思っていた。こんなおれを何でこれ程にという不思議を抱きながらも、おれは清の言う坊ちゃんという音の響きに、何か甘やかで、遠い郷愁を思わせる様なものを感じていたのだ。
 そして清にとっておれが本当は坊っちゃんではなかったと知った今では、清の言う坊っちゃんが何とも貴く、何とも掛け替えのないものに思える。
 不可ない、不可ない。また清の事を思い出してしまった。
 「山嵐、それで、君のいう一大事とは何だ?」
 
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