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2003年12月号 掲載 

旧青木石油・青木運輸事務所(太陽産業ビル)お別れ会 
 
 

現太陽産業 正面
 十一月下旬、八幡浜港へまっすぐにぶつかる道の右角、魚市場と海に向き合って建っていた風格のある建物が解体された。 昭和、平成の時代に八幡浜で暮らした人々の記憶の風景となっていた旧青木石油・青木運輸事務所である。 建物の所有者と有志の人たちによって、思い出の建物に対する告別の見学会が催されたので出かけてみた。
 青木石油は、故郷の高知県高岡郡で個人商店を営んでいた青木繁吉が八幡浜に進出して創立した「青木石油店」を昭和六年に株式会社に改組したもので、 現在の太陽石油株式会社の前身である。 青木繁吉は、高等小学校を卒業するとすぐに故郷の鉱油店に勤めた。そこで石油の将来性を深く確信し、弱冠二十二歳の時に独立して個人商店を創立する。
粘り強く高知県の繊維産業に重油を売り歩いて経験を積み、八幡浜に出たのは三十歳になったときのことであった。

居宅二階廊下から事務所を見る。
最初はライジングサン(現シェル石油)の代理店として開業したそうだ。先見の明があって独立心の旺盛なこの若者の将来は大きく開け、 昭和六年には店を株式会社に改組し、昭和十二年には居宅兼用のこの本社屋を建てるまでになった。青木繁吉は社業の他にも、 議員になって地方政治に関わったり、商工会議所の早期設立を主導して地域の商工業の振興にも尽くしたりした。 三瓶・八幡浜・別府の沿岸航路や魚市場の経営などにもあたったという。

天守閣のような部屋

中庭を見る
 この一見、石を張ったコンクリート建築のような重厚で品格を感じさせる建物の外観には、 個人商店から大きく飛躍した青木の「独立自尊」の気概と洋々たる将来への闘志の様なものが垣間見える。背後の和風建築も、二階が大広間中心の構成にはなっているが、大恐慌と戦争の時代に手堅く社業を守り育てた人らしく豪華というよりは社長の居宅として、 実用的なつくりになっていると感じた。三階に上がり奥の部屋に入ると、窓から港が見えた。壁に洋酒を並べた棚がしつらえてあり、 小さな木の机とベットが残されている。青木繁吉が使った部屋かどうかは知らないが、「天守閣」という言葉が心に浮かんだ。
 解体は完璧に記憶の一片も残さぬようにと、行われたと聞く。それも見識であろうか。合掌。

参考/『八幡浜市誌』『愛媛の近代建築』

 
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