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第109回 風早の中江藤樹
 
松山市柳原 
 近江聖人と呼ばれ、日本陽明学の祖とされる江戸時代前期の儒者中江藤樹は伊予大洲藩に仕え、祖父が郡奉行を務めた風早の地で、少年時代の一時を送ったという。

風早の藤樹
 2001年の11月に、今は松山市になった旧河野村柳原の雪雀酒造を訪ねた時のことである。道路の向側の猪野啓文堂という文具店の脇に「中江藤樹先生立志之地」という石碑が建っているのに気が付いた。文具店のご主人に碑の由来を伺うと、その店舗から背後の三穂神社の辺りにかけて、少年時代の藤樹が祖父とともに暮らした約600坪ほどの広さの邸があったということを親切に教えていただいた。昔は邸の跡に苔むした石垣や井戸が残り、藤樹が好んだとも、大洲から移植されたとも言い伝えられるチサノキや藤樹手植えの榎の巨樹があったそうだがいつの頃か、伐られてしまったそうだ。
 礼を言って、店を辞去するときに、ご主人が『河野村史』(景浦勉著昭和29年刊)所収の「中江藤樹と河野村」の章をコピーしてくださった。
 中江藤樹は、今から約400年前の慶長13(1608)年3月7日に近江(滋賀県)高嶋郡小川村に生まれた。名は原(はじめ)、字(あざな)は惟命(これなが)通称は与右衛門。父は吉次、通称徳右衛門、母は北川氏の女で名は市。9歳になったときに、伯耆(ほうき)(鳥取県)米子藩加藤家に仕えていた祖父吉長の強い望みで、祖父の養子となって近江の故郷を離れて米子に移った。
 父が息子の1人息子を養子に取るというのも妙な気がするし、藤樹の父は農民の暮らしをしているのに、祖父が武士であるというのも一見わかりにくく思える。しかし、祖父吉長の時代は戦国時代で、兵農分離が確立していく、過渡的な社会状況であったから、有力農民層=地侍が領主層に仕官して、農民から武士身分に上昇する機会があったのである。そういえば秀吉も百姓の子供だった。中江家では、藤樹の祖父と長男の父は仕官して武士となり、残った次男が土地を祖父から譲られて農民の暮らしを続けていたという。しかし、藤樹が生まれた頃には、何かの事情で、藤樹の父は武士の身分を捨て、故郷の近江に帰農していたそうだ。父の吉次が藤樹を祖父のもとに養子に出すことを断り切れなかったのは帰農して後の故郷での父の暮らし向きがあまり楽ではなかったのではないかという説もある。
 とにかく、祖父の養嗣子となって米子に行った藤樹は、10歳になった、元和3(1617)年に祖父の主家加藤家が伊予大洲に転封(てんぽう)になったため、祖父母とともに大洲に移った。そして、その年の冬に祖父が風早郡の郡奉行(郡内農村の民政を司る役人)となったので、風早に来たのである。

小さな戦争
 文具店の脇の碑は、この地で藤樹が学問に志を立てたことを記念するために邸址(ていし)に建てられたものであった。藤樹は、祖父が見つけた先生について文字を習い、「庭訓往来(ていきんおうらい)」や「御成敗式目」などを学んだ。(当時、習字の教科書としてよく使われていた。)藤樹は11歳の時にこの地で初めて「大学」を読んで「天子より庶人にいたるまで、一にこれ皆身を修るをもって本となす」とあるのに感激して学問への志を立てたという。記憶力の強い、明敏な資質を持つ孫を祖父が人に会うたびに自慢したことが「藤樹先生年譜」にも綴られている。
 文具店のすぐ裏手の三穂神社の境内に入った。本殿左手に若宮さまがある。土地に伝わる口碑では、若宮さまの瓦製の小祠は大洲藩主加藤家と中江家の人を祀ったものといい、小さな石柱が立っている。毎年7月15日夜には土地の人々が集って立念仏が行われるそうだ。境内で出会ったおばあさんが「子供の頃からずっとやっとるよ」と話してくれた。
 三穂神社のすぐ前が柳原港である。海に面した鳥居をくぐって港の船溜まりの脇を通り、真新しい堤防の方へ歩いた。昭和9年に港が修築されたという碑の脇から堤防に上がる。右手の古い波止の石垣の向こうに鹿島が見えた。左手には堀江の辺りになだらかな孤を描きながら続く海岸線が見えた。すぐ下の砂浜で少年が2人遊んでいた。「もう泳ぐのか」と聴くと「うん」と言って当然のような顔をしている。振り返ると、三穂神社の向こうに大きく高縄山が見えた。景色を見ながら写真を撮っていたら、さきほどのおばあさんが堤防に上がってきた。昔は、この辺りはずっと砂浜で松の並木があったそうだ。終戦の年の6月に海の方からたくさんの上陸用舟艇が砂浜にのりあげてきた。村が総出で炊き出しをして、少女だったおばあさんもおにぎりを作った。若い兵士が「沖縄に行くんです」と話していたという。
 藤樹はこの風早の地で4年暮らした。大洲へ戻ることになったのはある事件のためである。13歳の夏、大雨が降り、五穀が実らず、農民達が餓えに苦しむことがあった。農民達の多くが他所に逃れようとしたが、祖父の吉長は郡奉行として厳しく制止した。風早に九州に移された波止浜の来島氏の残党である有力な地侍が住んでいた。農民達がその地侍について逃亡をしようとする様子が見えたので吉長はついに、その地侍を討った。その際にその地侍の妻女まで斬殺したため、両親を殺された地侍の子供たちが、報復のために火矢を打ちかけたり、さまざまな攻撃を繰り返したあげく、小さな戦が起きた。祖父は戦場での少年藤樹の恐れを知らぬ勇敢さを喜んだというが、この事件の後、祖父は風早の任を解かれ、その年の冬に大洲に帰ることとなったのであった。

「日本陽明学の祖」
 今、この風早の地に藤樹が暮らしたことを伝えるものは、文具店の脇の碑のみになってしまった。藤樹の生前に弟子がまとめた年譜には学びの始まりと資質の萌芽、父母、祖父、君主への恩に対する意識、地侍の反乱鎮圧が記録されているのみである。
 藤樹は「日本陽明学の祖」といわれる。そしてまた「近江聖人」とも呼ばれた。ところが、朱子学を学び、晩年になって初めて王陽明の全著作と出会った藤樹が、陽明学に対する知識の面だけから言って「祖」と呼ばれるわけはないそうだ。藤樹は陽明学者を自任していたが、陽明学の思想家としては弟子の熊沢蕃山ほどの独自性はみられないという。それでもなお親炙した同時代の門人たちが藤樹を聖人と呼び、又「日本陽明学の祖」とされるのは、藤樹が道徳の実践者であり、真摯な求道の姿勢が人々を打ったからにほかならない。
 王陽明の哲学では“「心即理」であるような心は「良知(孟子のことば)」と呼ばれ、それが認識(知)と実践(行)との統一体であることが説明され、学問の目的は、「良知を致す」すなわち、各人にうまれつきそなわっている良知を完全に実現することと規定された。やむにやまれぬ「心情」、動的な「知行合一(ちこうごういつ)」、それが良知である。行動に発現しないような知は知ではない。と陽明は主張する。朱子の静的、理知的な哲学に対して、陽明学はいちじるしく動的、実践的、情意的である。「いかにひろくとも、ため池の水であるよりは、たといせまくとも、みずから湧きでてやまぬ泉でありたい」(陽明)…良知は…そのうちに情的な要素を強くふくんでいる点で、ルソーの言う「心情(ハート)にちかい。」”[島田虔次『中国の伝統思想』所収「明代文化の庶民性」より]良知の根本原理「心即理」の体現者という、この1点において藤樹は第一人者として、門人の誰からも認められていたのであろう。
 朱子学や陽明学が日本の近世社会で受け容れられる場合には、単なる知識として、あるいは就職のための道具として学ばれるというのが普通のことであったが、藤樹は「職業としての学問」の専門家ではなかった。しかも、18世紀半ば以降の藩校教育が普及した江戸時代後期とは異なり、近世初頭の藤樹の時代に武士社会の中で学問を学び実践者として行動するのは、変わり者として周囲から冷ややかに眺められるという結果を招く行為であった。藤樹はこのような時代に異郷の大洲で、祖父母と死別した後も学問に対する情熱を燃やし続けた。そして、ついには武士の身分を捨ててまで学問に生きることとなる。
 その藤樹の人生の中で、美しい瀬戸内の海に向かい、大らかな高縄山を背にした明るくおだやかな風早の地で祖父と過ごした4年間の少年時代が、いくども夢のような時間として思い出されたのではないか。柳原の砂浜を眺めていてそう思った。

〈参考〉
「中江藤樹」日本思想体系岩波書店
特に尾藤正英「中江藤樹の周辺」
「河野村史」
「中国の伝統思想」島田虔次

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1996-2012


柳原の堤防の上でおばあさんに話をうかがった。
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柳原バス停前の雪雀酒蔵

三穂神社の手水鉢

三穂神社境内の若宮さま。
大洲藩士中江家、大洲藩主加藤家の小祠という碑が建っている。

旧河野村柳原の邸址に建つ中江藤樹先生立志之地の記念碑。

三穂神社のむこうに高縄山