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2000年03月号 掲載 

長崎紀行 風頭(かさがしら)山麓の墓所を訪ねる 
 
 


 4月から宇和町在住の彫刻家ケース・オーエンスが、日蘭交流四百周年記念事業「ながさき阿蘭陀年」の一環として一年の間、長崎出島で野外彫刻展を開く。会場の下見と打ち合わせに行くケースといっしょに長崎を訪れた。
 長崎に着いたのは小雪の降る寒い晩だったが、ちょうど中国の旧正月の行事ランタン祭りの最中で、新地中華街は灯をともした提灯で埋まっていた。

ランタン祭り
 われわれは、その夜、日蘭交流四百年を記念する日本ツアーで長崎にやってきたアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートを聴いた。前夜は大阪、明日は大分とかなりハードなスケジュールをこなしているコンセルヘボウではあったが、才人リッカルド・シャイイーの指揮で重厚かつ色彩感溢れるブルックナーの交響曲第七番を聴かせてくれた。
 翌朝、私は一人で早起きをして、寺町の晧臺寺を訪ねた。晧臺寺には、シーボルトの娘、楠本イネとその娘タキ、シーボルトの弟子で保内町磯崎で生れ宇和町卯之町で医業を営み恩師の娘イネを女医として養育した二宮敬作の墓がある。先頃宇和町の人たちがイネが歩いたのと同じ長崎から宇和までの道を歩いて話題になったのは記憶に新しい。私もせっかくの機会だから敬作やイネの墓、そして、晧臺寺の背後の風頭山麓一帯の墓地を散策してみたいと思ったのである。大音寺と晧臺寺の間のへいふり坂の急坂を、道しるべにしたがって上って行くと楠の巨木があちこちにそそり立つ山の中腹に三人の墓があった。


砲術家高島秋帆の墓

写真の先駆者上野彦馬の墓

17歳で亡くなった道富丈吉の墓。花立てにドウフ家の家紋がある。「ヘンドリック・ドウフの妻は長崎の婦(おみな)にてすなはち道富丈吉生みき」斎藤茂吉


楠本イネとタキ、二宮敬作の記念碑、墓は碑の奥にある。
 わたしは、三人の墓から、さらに上に登った。何人かの人と行き違い風頭山の頂上に着いた。少し下って坂本竜馬の銅像のところに行き、有名な写真師上野彦馬の墓や高島秋帆、道富丈吉らの墓を巡って晧臺寺の境内に下りた。巨大な楠の木の繁る墓地の唐通事や阿蘭陀通事の墓、そして眼下の寺院の屋根とその向うに広がる長崎の町の風景は、私のような旅のものにも長崎の歴史を強く語りかけてくれた。

鍛冶屋町の「銀嶺」
古い長崎の雰囲気が漂う喫茶・バー・レストラン
TEL095-821-2073 (無休)
 帰りに鍛冶屋町の古書店大正堂に寄った。絵画の長崎派を少し研究したことのある友人が面白いからぜひにとすすめてくれた在野の長崎学者、故宮田安氏の『ながさき雑話集』や『長崎墓所一覧』をもとめた。宮田氏は、かさがしら随想の一文に「鎖国時代の長崎のおもかげが、いちばん色濃く残っているのは長崎のどこだろうか。/あれこれ考えてみると、風頭山麓に横たわる数千の墓地、このなかには鎖国時代そのままのものがある。長崎観光の第一のものは墓ではなかろうかと、思うことがある」と書いている。長崎を心から愛惜し探求した宮田氏の言葉として味わいの深いものがある。(N)


彫刻家ケース・オーエンス。
出島で、今年4月1日から来年3月31日まで野外彫刻展をする。
出島に展示する彫刻。明浜町の海岸で。


 
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