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2005年07月号 掲載 

大洲の中江藤樹 
 
 

大洲高校庭園の「孝」のエピソードを
表現した深刻な表情の藤樹像。
 大洲で藤樹が暮らした県立大洲高校の中にある住居跡を訪ねてみた。今は昭和十四年に大洲中学時代の卒業生が藤樹を顕彰するために寄付した「至徳堂」という百石取りの武家屋敷を模した建物が建っている。庭には近江小川村の藤樹書院から根分けされた藤樹「遺愛の藤」があり、藤樹が大洲に暮らしたときのままの姿をとどめる井戸が「中江の水」として守られている。
 元和六年(一六二〇)冬、祖父とともに風早を去り、大洲に戻った藤樹のその後を「藤樹先生年譜」で追ってみた。一言で言うと、藤樹の大洲での暮らしは決して明るいものではない。
 翌年、十四歳になった夏、六十三歳で祖母小島氏が亡くなった。さらにその翌年秋、祖父吉長が七十五歳で世を去った。十七歳の時に、京都から大洲に来た禅僧が論語を講じたが、学問を脆弱とする当時の大洲の士風のため、その僧から講義を受けたのは藤樹一人であったという。藤樹はその禅僧が京都に帰った後は『四書大全』(明で編纂された。朱子の注を基本とした論語・孟子・大学・中庸の注釈書)を購入し独習を続けたが、同輩の武士の誹謗を避けるため、仕事が終わり、同輩と付き合った後の深夜に読み進むことを日課にしたという。年譜の二十二歳のところにも同僚が学問をする藤樹を軽侮して暴言を吐き、愼った藤樹が相手を面罵詰問するという事件が記されている。異質な存在に対する武士社会の陰湿ないじめ体質に藤樹はかなりいらいらした様子が見える。十八歳の時には実の父吉次が亡くなって、ついに母がただひとり故郷の家に残されることになった。十九歳位から、藤樹は祖父の跡を嗣ぎ有能な郡奉行として働いているが、二十五歳の時に近江に帰省して母と将来を相談、その二年後の二十七歳の時には、脱藩して故郷近江の母のもとに帰る。この脱藩は陽明学的知行合一の見本として、主君より母を選んだという劇的なストーリーとして語られることが多いが、実はそれだけではなく、新谷藩誕生に関わる大洲藩のお家騒動に対する藤樹の「諫言」としての行動という有力で説得力のある説がある。

藤樹が暮らした当時のままの井戸「中江の水」


藤樹邸址に建てられた至徳堂。昭和14年大洲中学卒業生の窪田哲次郎の寄付により、藤樹旧宅をなぞらえて建設。

至徳堂内部。 藤樹が32歳の時に作った『藤樹規』が掲げてある。『藤樹規』は朱子の『白鹿洞書院掲示』を手本とするが、最初に置かれた『大学』の第一節「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善、(大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り。)」の「在親民」は、朱子独特の読み方として著名な「在新民(民を新たにするに在り)」を批判した王陽明のものである。

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